いつかの日
第1話

坂本達也は転勤して、この街に来てひと月経った。
東京の自宅から通おうと思えば通える距離だ。

しかし、あえてひとり暮らしをしている。
家族と離れて生活をしてみたいと常々思っていたからだ。

妻の麻美やひとり娘の高校生の明子と仲が悪い訳ではない。
妻は美人で優しく自分にはもったいないと思っているし、娘は高校生の女子にありがちな、父親を邪険に扱ったりせず仲良しだ。

しかし、独身のときも実家住まいであったので、ひとり暮らしにはずっと以前から憧れがあった。

妻には仕事が忙しくなるので会社の近くにアパートを借りたいと話した。

難色を示されると思ったが、あっさりと了解した。
達也は意外だった。
拍子抜けした。

そして、達也の一人暮らしは始まった。

心配していた掃除、洗濯は苦もなくこなした。
しかし食事については、作ってみたものの、いつまで経っても上手く出来ず、しばらくすると面倒に感じ、そのうちしなくなった。

そして、朝食は前日に買ったおにぎり、昼食はコンビニ弁当を食べていた。
夕食はいつもひとりで居酒屋に行きビールとおつまみで済ませていた。

自炊をしなくなっていい面があった。
この街の居酒屋をいろいろと回っている。
それが達也の仕事終わりの楽しみである。

今日も仕事が終わり、いつものようにどこの居酒屋に行こうかと商店街を歩いていた。

ここの商店街は地方都市の観光客もいる大きな商店街だ。

ブラブラして散策していると、チラシを配っている若い男性がいた。

「今日オープンしましたーよろしくお願いします!」とチラシを渡された。
家庭料理の店だった。

達也は、しばらく家庭料理を食べていないことに気付き、もらったチラシを立ち止まって見た。

そこには「家庭料理と言っても家庭料理以上のものを出します!」と自信たっぷりのセリフが書いてあった。

チラシ配りの男性が「お兄さん、すぐそこの角を曲がった所の店です、本当に美味しいですよ。満足しなかったらお代は要りません、ぜひよろしくお願いしまーす!」と元気よく言ってきた。

達也はチラシの文句に興味があり店を訪れた。

店に入ったが客も店員もいなかった。

そこは個人店の街の食堂でカウンターが数席あり、4人が座れるテーブルが三つある小さな店だった。

「すみませーん」と達也は大きな声で店の奥に向かって言った。

後ろから「おーい、お客さんだよ」と誰かか言った。
振り返ると、さっきのチラシ配りの男性だった。

奥から「はーい、ただいま」と女性の高い声が聞こえた。

「すみません、いらっしゃいませ」と姿をあらわした。

達也は彼女を見て息を飲んだ。

彼女は大学でクラスが同じだったマドンナ的な存在だった女性だった。

確か、黒木百合だ。

名前も覚えていた。

同じ学年だったので彼女も四十才になるのだろう。
大学の頃と変わらなく、いや、その頃以上に美しさがあり、また年齢に応じた色気も感じた。

彼女は達也のことは気付いていないようだ。

「何になさいます?」と聞かれた。

達也はハッとして「今日のオススメをください」と思わず言った。
百合は「分かりました」と和かに言った。

改めてメニューを見ると「今日のオススメ」はない。

チラシ配りの男性が「お客さんが初めてのお客さんです」と嬉しそうに話した。

この男性と夫婦なのだろうか。
年も同じくらいか。

親しげに二人で会話をしているのを見て達也は、このマドンナと結婚できたこの男を羨ましく思うと同時に憎たらしく感じた。

料理は、とても美味しく、思わず妻の料理と比べてしまった。

このような料理を毎日この男は食べているのか。

そのうちに次々と客が入ってきた。
コイツの呼び込みがお陰だろう。
確かに自分もそれでこの店に入ったのだから。

何人か待っている客もい初めて、達也は急いで食べ始めた。

「お客さん、ゆっくり召し上がってくださいね」百合が待っている客に聞こえない声で囁くように言った。

「あ、はい」達也は嬉しさを顔に出さないように気をつけて食べ終えた。

「お会計、お願いします」
「はい」とチラシ配りが応えた。

チッ、コイツが会計するのか。会計を百合がしてくれないのかとガッカリした。

その時、百合が奥から出てきた。
「私が会計するから、あなたはお客さんに食事を出して」

「はーい、了解!」チラシ配りが相変わらず元気に言った。
コイツは元気だけが取り柄みたいだな。

百合は会計をしながら、達也の目を見ながら言った。
「お客さん、また来てくださいね、お待ちしています」

達也は嬉しいと同時に、同じクラスだったことはやっぱり覚えていないかと、残念な気持ちも入り混じった。
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