三日月だけが見ていたふたりの輝かしい生活
翌朝、雪が降っていた。

 外廊下にまで積もった雪を武者がかいていた。

 利香は大沢課長にメールを送った。

『少し遅刻します。靴が破れていて、長靴がありません。申し訳ありません』

 大沢からすぐに返信があった。

『知ってたよ。靴、買ってやろうか(笑)気をつけてゆっくり来いよ』

 こういうところもあの課長の長所なんだった、と思い出して胸が痛んだ。

「武者、後は私がやるよ」

「もう行く時間だよね」

「雪だからゆっくりでいいって」

「でも大変だよ、結構積もってる」

 武者が降り積もった雪に目を向けた。

「半分はわたしんちなんだから」

 今日まではね、と利香は心で思った。

「じゃあ、これ」

 大家さんから借りたという雪かき用のスコップを武者から受け取り、利香は雪掻きをした。

 ふと見ると玄関に小さな雪だるまが2つ並んでいた。

 ちょっと大きいのと小さいのが。

「可愛いだろ」

「武者が作ったの?」

「誰も踏んでない雪で作ったから綺麗だよ」

「うん。可愛い」

「じゃ、俺、仕事に行くよ。雪だから少し早めに」

「転ばないようにね」

「いってきます」

 外廊下の手すりに手をかけて顔を出す。

 直したリュックはちゃんと蓋が閉まっているから雪が直接入らないでよかった、と利香は満足気に見送った。

 雪かきを終えて部屋に入った。

 荷物を纏めた。

 広告用紙の裏にメモを書いた。

『武者浩司様

  本日をもってこの契約は終了になります。
  
 一ノ瀬利香には好きな人ができました。

 短い間、ありがとう。

        一ノ瀬利香 』


 裁断用のテーブルの前に立ち、並んだお客様の応対に追われていた。

 隣でミキがまだ何か言っていた。

「ったくいきなり押しかけてきて」

 利香はクスッと笑いながら、お客様の希望の寸法で裁断していった。

 アパートを出て、行くところはミキの部屋しかなかった。

 初めからそうするべきだったけど、あの頃ミキの指にはダイヤが輝いていた。

 だからはなから選択肢にはなかった。

 ミキは本当は喜んでいた。

 あの危険な目をした男から親友が逃れられたのかと思うと嬉しくて仕方なかったのだ。

 でもこういう性格だ。

 口を開けばブツブツと文句を言って、内心を誤魔化すのだ。

「1メートルお願いします」

 次のお客様が利香の前に立った。

「はい」と言って利香が顔を上げた。

 心臓が口から飛び出そうだった。

 目の前にはコンビニで武者と買い物をしていた女性が立っていた。

「あの・・」

 その女性は遠慮がちに利香に声をかけた。

「は、はい」

「一ノ瀬利香さんという方はいらっしゃいますか?」

「え、一ノ瀬・・ですか?」

 慌てて首から下げた社員証を隠そうとしたけど、布を切る時はブラブラして邪魔だから制服の胸ポケットに突っ込んでいたから救われた。

「ええと、あれ?どこにいったかな?」

 わざとらしく店内を見渡す。

 隣に立って布を裁断しているミキが怪訝そうに横目で見ている。

「そうですか。だったらまた来ます」

「はい・・」

 利香は呆然とその女性を見ていた。

「あの・・1メートル・・」

「あ、はい、かしこまりました」

 女性は小さな男の子が喜びそうな怪獣の絵がプリントされているキルティングの布を購入した。

 切り終えて渡し、「ありがとうございます。お会計はあちらのレジにお並びください」と利香は丁寧に頭を下げた。

「いえ、こちらこそ、ありがとう」

 女性は慎ましく言うと、布を胸に抱いてレジの方へと向かった。

「何?あんたはいったい誰?」

 ミキが横目で睨んでいる。

「さて、私は誰でしょう」

 仕事中だし、タカギミノリかもしれないとここで言えばミキはあの人を追いかけて何を言うかわかったもんじゃない。

 ミキは本当にダイヤのリングを質屋に持っていき、現金と変えてきたのだ。

 夜、利香の前に分厚い封筒を差し出し、お母さんに、といつになく照れてミキは言った。

 もちろん気持ちだけ受け取った。

 ミキ、私、いつになったら立ち直れるかな、と聞いたら「すぐだよ」ミキは答えた。

 雪が降ったというのに、街はどこか春めいていた。

 もうすぐ暖かくなる。

 利香は、暖かったあの部屋をまた思い出して視界を滲ませる。

 本当にいったいいつになれば武者の笑顔が消えてくれるんだろう。

 そして、武者の笑顔を忘れさせてくれない人はどうしてか毎日利香の職場にやってきた。

「あの、これをお願いします」

 タカギミノリかもしれない女性は安価なストラップを購入しようと裁断用テーブルの前で利香に差し出す。

「こちらは直接レジの方でお願いいたします」

「あ、そうなんですね。すみません」

「いえ」

「ところで一ノ瀬利香さんは」

「ええと、どこ行った・・かな?」

「今日は休みです」

 横からミキが言う。

「そ、そうなんですね。ではまた来ます」

 タカギミノリかもしれない人はストラップを持ってレジへと向かった。

「何者?」

「さあ」

 タカギミノリかもしれない人だということまではミキに話していなかった。

 話せばガタガタと騒ぎ立て、来店したあの人に何を言うかわからない。

 もう終わったんだから事を荒立てる必要はない。

 武者からはラインも来ない。

 もう契約は終了したのだ。

 それなのに、タカギミノリかもしれない人は毎日毎日とてもしつこくやって来た。

 その度に1番安い小物を買っていく。

 何か買わなければ店員に声をかけてはいけないとでも思っているのだろうか。

 彼女の謙虚さが垣間見えた気がして利香は首を振る。

 あんなにしつこい女なのだ。

 武者も苦労しているのではないか。

 辟易するぐらいしつこく金を無心され、本は苦しんでいるのではないか。

 だって現実にお金なんてほとんどなくて、苦しい生活を余儀なくされているのだ。

 でも考えてみると、ふたりで暮らしたあの生活の中で、武者がイライラしたりセコセコしているのを見たことがなかった。

 いつも笑っていて、時々冗談を言った。

 穏やかでとても安寧な暮らしがあそこにはあった。

 そしてとうとうタカギミノリは次の手段に出た。


 

 





 
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