《シナリオ版》許嫁の見つけ方〜ワケあり御曹司は雛鳥のヒミツを暴きたい。
第1話
  ×  ×  ×

  〇雛鳥(ひな)の家、風呂場の脱衣場

  風呂上がり、濡れ髪の一条 瑠偉(いちじょうるい)、
  半裸の首にタオルを掛けている。

  ※雛鳥、赤く泣き腫らした目

  瑠偉、長身の背中をかがめ、
  雛鳥と視線を合わせて、
  雛鳥の頬に(涙で)張り付いた髪を指先ですくう。

  ※小首を傾げた瑠偉、正面の真剣な顔

  長くて繊細な指先が頬にふれて、
  雛鳥、びくん、となる。
  はずみで瑠偉の着替えを落としてしまった。

瑠偉「(翼のようなまつ毛を伏せて)ひな……俺を見て」

  ※濡れ髪の瑠偉、色っぽい顔のアップ

  ——と。
  雛鳥、うつむいていた顎を持ち上げられる。
  見つめ合う雛鳥と瑠偉。

瑠偉「もう泣かなくていい」
瑠偉「だから辛い気持ちは俺にぜんぶ預けて」

雛鳥(ひな)M「瑠偉は大人だ」
雛鳥(ひな)M「落ち込んだ私を励まそうとしてくれただけ」

瑠偉「(愛おしそうに眉を下げて)俺はひなが大事だ」
瑠偉「笑っていてほしい」

  一度だけ瞬きをした瑠偉の、
  綺麗な顔が大写しになって、
  雛鳥、ぎゅ、と固く目を閉じる。
  キスの気配。

雛鳥(ひな)M「束の間の彼女なんて……」
雛鳥(ひな)M「瑠偉の『許嫁』には敵わない」 

  ×  ×  ×




◯民家の合間を縫うように続く細い道
(いわゆる『お屋敷街』)
 季節は制服が間服に替わった初夏、学校帰りの夕方

  この一帯から程近い私立高校に通う早乙女 雛鳥(さおとめ ひな)は、
  大通りを抜け、最寄りの駅とは真逆の方角に向かって歩いている。

  ※腰まで伸ばした長い髪を括ったポニーテールが背中で揺れる

  雛鳥、とぼとぼと重い足を引きずる。
  どんよりとした灰色の雲に覆われた空は、
  今にも泣き出しそう。


 《回想、雛鳥》雛鳥が通う女子校、更衣室(午前)

  体操服を制服に着替える女生徒たち。
  やたら胸を隠そうとする雛鳥。
  いぶかしんで覗き込んだロッカー隣の女生徒が、
  雛鳥の胸元に奇妙な形の火傷痕を見つける。

一軍女生徒A「(恐ろしいものでも見るように)え、なにそのアト……黒魔術か何か?!」
一軍女生徒C「うわ、ほんと! 気持ち悪い」

  一軍、と呼ばれる雛鳥のクラスメイトたちが、
  あからさまに眉をひそめる。
    
一軍女生徒B「あんなヤバいもの彼氏が見たら」
一軍女生徒A「きゃはは、やだっ。《陰キャ》の早乙女さんに彼氏なんかいるはずないじゃない!」

  嘲笑う女生徒たち。
  コンプレックスをえぐられた雛鳥。
  胸元を掻き抱き、泣き出しそうな顔でうつむく。

雛鳥(ひな)M「火傷の痕を——見られた」

 《回想終了》




〇再び帰り道

  雛鳥、お屋敷街をとぼとぼ歩く。
 

雛鳥(ひな)M》

早乙女 雛鳥(さおとめ ひな)、都内の私立女子高校二年生。
目立つことは避け、地味にただひっそりと生きてきた。
家に帰れば家業の和菓子屋の手伝いに忙しく、部活やなんかに打ち込める時間もない。
アルバイトの経験すらないまま、高校に通って家に帰るだけの日々を送っている。

クラスメイトたちの話題は、もっぱら自身の経験談。
誰それちゃんに彼氏ができたとか、昨日初キスしちゃったとか。
部活の先輩がいかがわしい場所で彼氏と一緒に歩いているのを見た……とか。

《M終了》


  ——ぽつり、ぽつり。
  とうとう雨粒が落ちてきたので、慌てて傘を広げる。
  金平糖のような淡い水色の傘。


雛鳥(ひな)M「(ぽつりと)彼氏なんかいらないもん」

  雛鳥、再び歩き出す。
  いたたまれない気持ちになって、
  胸を押さえるようにしながら、
  制服の胸のボタンを握りしめた。

雛鳥(ひな)M「さやかは気にすることないって言ってくれたけど」

  雛鳥、心の中が嘲りの笑い声でいっぱいになり、
  今にも張り裂けそうな表情。


雛鳥(ひな)M》

私の右胸には、直径五センチほどの魔法陣のような形に見える黒い火傷のあとがある。
両親に尋ねても『それはあなたが神様からのギフトだっていう証だわ』なんて
曖昧な言葉が返ってきただけ。

これまでの人生で何度か告白されたこともあったけれど、
 ※他校の男子生徒に駅のホームで告白される図

胸の火傷(やけど)を人に見られるのが恥ずかしくて。
高二になった今でも恋愛にはすこぶる臆病だ。

育ての両親には感謝してもしきれないほどの恩があって、
深い愛情を感じてはいるけれど……

《M終了》
 

雛鳥(ひな)M「自分を捨てた本当の親への複雑な想いも捨てきれずにいる」
雛鳥(ひな)「(ぶんぶん首を振って)また卑屈になってた」

  右胸に手をあてて、

雛鳥(ひな)M「これはただのやけどじゃない、人の手で故意に押された『焼印(やきいん)』だ。考えたくはないけど、本当の親がつけたものなのかも知れない。赤ちゃんだった私を山奥に捨てるくらいだもの、きっとそう」

  ※引き、雛鳥泣き出しそうな空を仰ぐ

雛鳥(ひな)M「だったらなぜ私の本当の両親はこんな酷いものを付けたんだろう」
雛鳥(ひな)「焼けた鉄印を押し付けるなんて、虐待だよ……っ」




◯お屋敷街を歩いた先にある三津上(みつかみ)神社へ向かう路地

  雛鳥、赤い鳥居を潜って、

雛鳥(ひな)M「(期待を込めて)ここに来ると気分が落ち着くんだよね」

  生憎の雲行きの悪さ。
  季節外れの夕立ちだろうか、雨足は次第に酷くなる。
  「もう引き返そうか」と思ったけれど、

雛鳥(ひな)「せっかくここまできたんだから」
雛鳥(ひな)M「神社の神様にひと目会って帰りたい」

  雛鳥、「よし!」と意気込んで歩みを早める。



〇三津上神社の境内、夕刻

  静謐な空気に包まれ、広々とした神社の境内には、
  樹齢何百年という大木がそびえ立っている。
  幾重にも重なり合う木々の葉音とともに、
  激しさを増す雨のなか、
  灰色に濡れそぼる木々が飄々と風に揺れる。

  見た目は大学生くらい。
  傘も持たず、濡れることを気にしていない様子で空を見上げ、
  ぽつんと佇むスーツ姿の一条 瑠偉(いちじょうるい)。

雛鳥(ひな)M「モデルかな? アイドル……なんて、まさかね」

  ※雨空を見上げる瑠偉の横顔アップ

雛鳥(ひな)「……かっこいいっ」

  雨のせいか彼の他に人影はない。
  瑠偉の艶やかに流れる黒髪が、
  雨に濡れて額に落ちかかっている。

雛鳥(ひな)「……男の人なのに。キレイだから一瞬女の人かと思っちゃった」
雛鳥(ひな)M「日本人離れした整った顔立をしているけれど、肩幅が広く上背はがっしりとしていて、遠目でも背が高いのだとわかる」

  少し前からゴロゴロと低く嫌な音が、
  分厚い雲間から漏れている。
  雷が鳴る空の下で傘を差していたら危険だと警戒し、
  雛鳥は神社のお(やしろ)に逃げ込もうと歩みを早めた。

雛鳥(ひな)M「(傘の影から肩越しに瑠偉を振り返って)傘も差さずに何してるんだろう」

  灰色の空気の中で鮮やかに咲く水色の傘に気付いて、
  瑠偉、雛鳥を見る。
  意思の強そうな瑠偉の眼差しと視線がぶつかって、
  ハッとした雛鳥の背筋が伸びる。

  その瞬間。
  耳をつんざく轟音とともに目が眩むほどの閃光が走った。

雛鳥(ひな)「きゃ?!」

  雛鳥、小さな悲鳴をあげるが、
  声は地を這うような轟音にかき消された。
  思わずしゃがみ込み、
  傘を投げ出して頭を抱え、身を伏せる。

  バリバリと鋭い音を立てて御神木が燃えている。
  幸い周囲に他の木はなく、地面は濡れ土。
  他に燃え移る心配はなさそうだ。

  瞬時に上がった炎だが激さを増した雨には勝てず、
  赤い火はすぐに小さくなり、
  代わりに白い煙がもうもうと立ち昇り始めた。

雛鳥(ひな)「(身を起こして焦り気味に)そうだ、あの人っ?!」

  視線を巡らせると……
  瑠偉が落雷した木から、
  数メートルほど離れた場所に横倒れになっている。

  雛鳥、慌てて駆け寄る。
  ぐったりと横たわる瑠偉の大きな身体を抱き起こし、
  必死で声をかけた。
  瑠偉の口元に自分の耳を近づけると、

雛鳥(ひな)「良かった、ちゃんと息してる……!」

  雷はまだ頭上を巡っている。

雛鳥(ひな)M「このままじゃ危ない、どうにか彼をお(やしろ)の屋根の下に運ばなきゃ」

  背高く重い瑠偉の体。
  雛鳥、抱えようと足掻くが、
  動かせるはずもなく。

  瑠偉の長い睫毛は固く伏したまま、
  ぴくりとも動かない。
  雛鳥、雨に濡れながら途方に暮れ、
  泣き出しそうになる。

雛鳥(ひな)M「どうしよう、このまま死んじゃったら……っ」
 
  落雷を気にながら息を切らせて駆けつけた、
  三津上神社の宮司が二人を見つけ、
  大声で叫んだ。

宮司「君たち、無事か!?」



  ×  ×  ×

  《場面転換》
  雛鳥が病室のベッドで眠る瑠偉を心配そうに眺めている

  ×  ×  ×


  ※瑠偉の閉じた目元アップ


〇気を失った瑠偉の夢の中(夕刻)
 
  灰色の雲が空を覆う夕刻、
  間接照明を点けた薄暗い部屋。

  瑠偉、自室に備え付けのシャワーブースでシャワーを浴びながら、
  胸元にある焼印(雛鳥(ひな)の胸元にあるのと同じ形)の
  黒々とした痕跡に触れる。
 
瑠偉M「(忌々しげに)縁組は免れないのか……?」


◯瑠偉の夢の続き、歴史を感じさせる佇まいをした和建築の立派な屋敷

  広い居間の内装は純和風ではなく、
  家具は海外ブランドのモダンな黒い革製で、
  センスよく統一されている。

  長方形に近い形の黒革のソファに腰掛けながら、
  瑠偉の父、一条 櫂(いちじょうかい)が新聞を読んでいる。

  居間にスーツ姿(彼の普段着)の瑠偉が気怠げに入ってくるが、
  櫂には目もくれようとしない。

父親(一条 櫂)「なんだ瑠偉(ルイ)。居たのなら久々に会った父に挨拶でもしたらどうだ」

  瑠偉、無言のまま櫂の目の前を横切ると、
  居間の本棚から分厚い一冊を取り出して、
  中をあらためている。

父親(櫂)「……フン! まあ良い。そんな態度が取れるのも今のうちだ。数年後にはお前も私の片腕として、一条グループの一員になるのだからな」 
瑠偉「(冷徹に)俺は兄貴とは違う、あんたの駒にはならない。それに」

  瑠偉、櫂に背を向けたまま苦々しい表情(かお)をする。
  胸元に拳を打ちつけて、
  
瑠偉「明日、この焼印を消しに行く」

  ボソリと言い捨てて(居間を出ようと)、
  歩き出す瑠偉。

父親(櫂)「ん……?! ふはは、やっと口をきいたかと思えば、下手な冗談を」

  櫂、酷薄な笑みを浮かべる。

瑠偉「17年《これ》に縛られ続けた……もうウンザリだ」

  櫂、立ち上がって駆け寄って、
  自分よりも背の高い瑠偉の胸ぐらをつかむ。

父親(櫂)「またその話か……! 女遊びなら飽きるほどしてきたろう? お前はいったい何が不満なのだ」
瑠偉「不満……? ふっ、笑わせるな。目の前にいない女とどうやって結婚をする?!」

  瑠偉の剣幕に、
  櫂、しぶしぶ胸ぐらを離して、

父親(櫂)「誘拐された円城寺家の一人娘が生存していれば、あと3年で二十歳。仮に死亡していれば正式な婚約締結の期限を迎える」
父親(櫂)「縁組の解消は早くても3年後だ。お前はこれまでどおり好き勝手していればいい」

瑠偉「(半眼で櫂を見下ろして)期限なんかどうでもいい、焼印は消す。円城寺家に伝えろ……今すぐ縁組を解消すると」

父親(櫂)「(激昂して)馬鹿な! お前の意思など必要ない」
父親(櫂)「円城寺家との血縁ができれば『菊屋』は後世百年は安泰。焼印は両家を繋ぐ《しるし》なのだぞ?! 消させるものか」

  櫂は執事を呼び出し、
  「こいつを部屋に繋いでおけ」と伝えるが、
  櫂の腕を振り払う瑠偉。


◯瑠偉の夢の続き、屋敷内の長い廊下

  瑠偉、眉根を寄せて足早に歩く。
  ただならぬ雰囲気。
  ティーセットを運んできたメイドが驚いて、

一条家の古参のメイド「あらら、瑠偉坊ちゃん?!」

  苛立ちに任せて屋敷を出れば、
  雨粒が瑠偉の頬を叩く。
  瑠偉は構わず歩き続ける。

瑠偉M「俺の許嫁は、俺自身が選ぶ……!」

  頭の中で誓うように言えば。
  突然、視界が暗転した。

  目の前が真っ暗になり、何も見えない。
  そこに地を這うような轟音とともに目も眩むほどの閃光が走り——
  瑠偉、眩しさに耐えられずギュッと目蓋を閉じる。





〇病院の個室、午後七時(窓の外は暗い)

  瑠偉、病室のベッドに横たわっている。
  雛鳥の目の前で死んだように眠っていた瑠偉のまぶたが、
  突然「ぱち」と見開く。
  
  雛鳥、一瞬ギョッとするが、
  すぐに寒々とした蛍光灯の下に照らし出された瑠偉の、
  蒼みがかった瞳に思わず見入ってしまう。

雛鳥(ひな)M「日本、人……?」
雛鳥(ひな)M「目の色、青っぽくて綺麗……」

  瑠偉、両目を見開いたまま瞬きもせず、
  呆けたようにじっと天井を見つめている。

雛鳥(ひな)「(おそるおそる)あっ……あの」

  瑠偉、無言で天井を見つめたまま。

雛鳥(ひな)「(ほっとして)気がついて良かったです。このまま……死んじゃうんじゃないかって、心配、で」

  「看護師さんを呼びますね」
  と、ベッド脇のブザーに手をかけたとき、
  瑠偉の指先が雛鳥の腕を掴んだ。

雛鳥(ひな)「ひいっ!?」

  驚きすぎてすっとんきょうな声が出てしまう雛鳥。
  見ればいつの間にか瑠偉の硬直がとけていて、
  (いぶか)しさと鋭さをともなった蒼い瞳が、
  雛鳥をぎろりと見ている。

瑠偉「(困ったように眉をひそめて)君は……誰だ」
雛鳥(ひな)「(たじたじとなって)えっ? えっと……誰、でしょう……」
雛鳥(ひな)M「名乗らなくてもいいよね? さっき偶然神社で居合わせただけだし、宮司さんと一緒に、ここに運んだだけ……なんだしっ」
雛鳥(ひな)「あの、目が覚めて良かったですっ。じゃあ……私、これで失礼しますねっ」
雛鳥(ひな)M「あとは看護師さんとか警察とか、何とかしてくれるよね?」

  雛鳥、瑠偉の手を丁寧に引き剥がし、
  すっかり濡れてしまった通学鞄を胸に抱えて。
  老女みたいに腰を折った姿勢のままスツールを立ち上がる。

瑠偉「(不安そうな顔で)ちょっと待て! いや、待ってくれ」

  がばっと背中を起こす瑠偉。
  雛鳥、瑠偉のすがるような表情に少しだけ同情が湧いて、
  おずおずと振り返る。

瑠偉「君は……っ。なぜ、ここにいる?!」
雛鳥(ひな)「(少し照れて)なぜと言われましても」
瑠偉「俺は……君の知り合いなのか?」
雛鳥(ひな)「えっと、おっしゃってる意味が」

雛鳥(ひな)M「しっ、知り合いじゃないしっ。そんなの、この人だってわかってるはずじゃ……?」

  瑠偉を見れば今度は悲壮に眉根を歪めて目を閉じ、
  目頭を指先で押さえている。

瑠偉「(ボソリと)俺は……なんで病院なんかに」 
瑠偉「(目を開けて、膝の上の自分の両手のひらを睨み)覚えてないんだ、何も」

雛鳥(ひな)「あっ、あなたは神社で倒れて、その前に雨に打たれて、それで、雷が鳴ってて、その……」

  目を丸くする瑠偉を横目に、
  雛鳥はますますたじたじとなる。
 
雛鳥(ひな)M「こんなかっこいい人と話したことないから、なんか緊張しちゃって……これじゃ支離滅裂!」

  雛鳥、(恥ずかしさと情けなさで)真っ赤になっていると。
  廊下の向こうから騒がしい足音が近づいた。

雛鳥の母(美咲)「ひなちゃぁぁぁん!?」
雛鳥の父(和夫)「ひなッ!!」

  世界の終わりに遭遇したかのような悲壮感を顔全体に漂わせ、
  雛鳥の両親、早乙女 和夫と美咲が、
  病室入り口に張られたカーテンから顔を覗かせる。

雛鳥の母(美咲)「(安堵感いっぱいに)良かった……! 雷に打たれたって聞いて心配したんだからぁっ」
雛鳥の父(和夫)「(悲壮感を全身に漂わせて)そうだよぉ、病院から電話かかってきた時ぁ、てっきり死んじまったかと」

  雛鳥、早とちりな両親に少しだけ呆れてしまうが。
 
雛鳥(ひな)M「でもお母さんたち、私を心配して、お店を放り出して駆けつけてくれたんだよね?」

  母の美咲に抱きしめられる。
  急に肩の力が抜けて、
  安堵の気持ちに包まれて、
  
雛鳥(ひな)「二人とも病院で大声はやめて? お父さん、私まだ死んでないよ。それにお母さんっ、雷には打たれてないからっ」

  雛鳥、泣き笑い。




〇雛鳥の自宅・早乙女家(同日の夜)

  ダイニングテーブルを囲んで遅めの夕飯を摂っている。
  雛鳥たち家族三人に、
  四人掛けの食卓にはそぐわない長身の瑠偉が混じる。

  ※雛鳥、夜間と風呂上がりは長い髪を下ろしている

雛鳥(ひな)M「って、なんなのこの状況——ッ?!」

  雛鳥、ナスの味噌汁をすすりながら、
  嬉々とはしゃぐ隣の美咲に怪訝な視線を送る。

雛鳥(ひな)M「まるでパリコレから飛び出してきたようなモデル体型の彼が座るには、狭い日本家屋向けの我が家の家具は少しばかり小さい」

雛鳥の母(美咲)「瑠偉くんったらすんごく背が高いのね。何センチ??」
瑠偉「……?」

  豚肉の生姜焼きを箸でつまみ、
  珍しいものを見るように眺めていた瑠偉が顔を上げる。

雛鳥の父(和夫)「その様子じゃぁ185センチは超えてるだろうな〜」

  雛鳥、味噌汁を吹き出しそうに。

雛鳥(ひな)M「ひゃ、ひゃくはちじゅうご……?! でかっ」

雛鳥の父(和夫)「そういや瑠偉くん。記憶喪失でも自分の身長って覚えてるものなのかね?」
雛鳥の母(美咲)「そうよね、先生は部分記憶喪失……っておっしゃっていたけど」

瑠偉「何となく、ですが、身長くらいは」
雛鳥の母(美咲)「ねぇ瑠偉くん、『BBS』のミンギュに顔とか背格好とか似てるって言われない!? お母さん大ファンなの~」
雛鳥の父(和夫)「だからお母さん、瑠偉くんは記憶喪失なんだよ。KPOPアイドルの事なんか聞いたってわからんだろう」

  そんな会話を横目に、
  黙々とおかずを口に運ぶ雛鳥。


雛鳥(ひな)M(回想シーンを交えて)》

彼の名前は『瑠偉(ルイ)』。
軽い脳震盪を起こし一時的に記憶を失っていて、名前とごくわずかな事以外、何も覚えていないのだそう。

私も念の為に検査をしてもらったけれど、なんともなかった。
慌てふためいて病室に駆け込んで来た両親は、瑠偉が記憶を失っているという話を聞くと、気の毒だと言ってこの家に半ば強引に連れてきた。
瑠偉さん……本人は、きっぱりと断ったのにも関わらず。

《M終了》


雛鳥(ひな)M「(少し呆れて)いくら帰る場所がわからないって言ったって。お母さんたち、あれじゃ誘拐よ」

雛鳥の母(美咲)「この家、狭くてごめんなさいねぇ。あ、ご飯は足りてる?! 瑠偉くんは背が高いからお腹が空くでしょう、遠慮しないで、たくさん食べていいのよ?」
雛鳥(ひな)「背が高いからってたくさん食べるとは限らないよ、お母さん」

雛鳥(ひな)M「なんて余計なツッコミを入れてしまう私はきっと……状況にまだ対応できていないのだ」

  ご飯を流し込みながらも、
  雛鳥の心臓はどくどくと悲鳴をあげている。

雛鳥(ひな)M「とにもかくにも、この空気は気まずすぎる。すぐに出て行ってもらわないと私の心臓がもたない……!」

  雛鳥、真正面に座る瑠偉をチラ見しながら、
  そんなことを考えていると。
 
雛鳥の母(美咲)「記憶が戻るまで、いつまでだって居ていいのよ!」

  雛鳥、ぎょっとして見やると、
  ニヤリと微笑んだ美咲が雛鳥に目を向けてくる。

雛鳥の母(美咲)「ひなちゃんだって~緊張してるみたいだけど内心は喜んでるんでしょ? 嬉しくて仕方ないって顔してるもの〜」

雛鳥(ひな)M「してない、してない。喜んでもないっ! と言うか今すぐにでも出てってほしいっっ」

  雛鳥の口の中は豚肉の生姜焼きでいっぱい。
  こんな時に限って!
  せめてもの抵抗を示すため、
  膨らんだ頬をぶんぶん振って見せる。

雛鳥の母(美咲)「ほーら、やっぱり。瑠偉くんが我が家に来てくれて、ひなちゃんも嬉しいって」
雛鳥(ひな)M「言ってない、そんな事言ってないから!」

  やり取りを静かに見ていた瑠偉が、
  カタン、と箸を箸置きに置く。
  長くて繊細な指先が両手を使ってきちんと箸を揃えて置くさまに、
  雛鳥は見入ってしまう。

雛鳥(ひな)M「ハーフの海外モデルみたいな見た目をしてるけど、この人、ちゃんと日本人だ」

瑠偉「お気持ちは有難いですが、俺のような素性も知れない者が突然に居候をさせていただくわけにはいきません。食事をご馳走になったら失礼します」
雛鳥の母(美咲)「出てくって……《その》格好で?」

  和夫のくたびれたトレーナーの上下を着せられた瑠偉は、
  まるで大人が子供の服に無理やり袖を通しているようで。
  瑠偉、「ぁ」と自分の服装をあらためて見る。

雛鳥の父(和夫)「瑠偉くんは背広を着てたんだろう? 就活動中の学生じゃないのか?」
雛鳥の母(美咲)「お父さんったら。背広じゃなくてスーツ! 就活で着るものなんかじゃなくて、スリーピースだし上質なしつらえよ」

  瑠偉は何かを思い出そうとするけれど、

瑠偉「(ツラそうに目頭に手をやって)……ッ」
雛鳥の母(美咲)「ああっ、ごめんなさいね瑠偉くん。無理に思い出さなくてもいいのよ? 失った記憶なんてね、何かの拍子にフーッと戻ってくるものなんだから」

雛鳥(ひな)M「知ったような事を」

雛鳥の母(美咲)「脳震盪を起こしたんだし、念のために一晩入院って言われたのを私たちが連れて帰って来ちゃったんだから。それにカバンもお財布も持ってなかったんでしょ? ケータイは? 持ってる?」
瑠偉「スマホは——あります」

  瑠偉、スエットのポケットから、
  スマホ(画面が真っ黒)を取り出してすぐにしまう。

雛鳥(ひな)M「その文明の力さえあれば、記憶なくしててもどうにかなるなる!」

雛鳥の母(美咲)「とにかく今夜は泊まっていきなさい。着ていた物だってまだ乾いてないんだし、お風呂に入ったあとだから風邪をひいちゃうわ」
雛鳥の父(和夫)「そうだよ瑠偉くん。お母さんもひなもこんなに喜んでるんだ、せめて一晩くらいは甘えてやってくれないか?」

  雛鳥は心の中で何度も呪文を唱える--------

雛鳥(ひな)M「断れっ、断われ……っ」
瑠偉「ではお言葉に甘えて、一晩だけ」

  雛鳥、ぎゅっと閉じていた目を開ければ、
  真正面に座る瑠偉の青みがかった瞳とぶつかった。
  瑠偉、形のいい眉を下げて雛鳥に微笑みかける。

雛鳥(ひな)M「それはどこか『ごめんね』って、申し訳なさそうな謝罪にも、見えて」
雛鳥(ひな)M「(瑠偉をちょと見直して)私が嫌がってるって、この人は気付いてた」

  雛鳥、視線をそらせて下を向く。

雛鳥(ひな)M「(見直したけれどやっぱりほぞを噛んで)うぅ……」
雛鳥(ひな)M「そんな顔されたら、今すぐ出てけって言えなくなるじゃない」




◯雛鳥の家・台所(翌日の早朝)

  制服姿の雛鳥、
  冷蔵庫をのぞいて生卵二個を取り出す。

雛鳥(ひな)M「両親は仕込みで忙しいので、朝ごはんはいつもひとりきり」
雛鳥(ひな)「(ひとりごと)卵まだ残ってた。えっと、卵と牛乳……それから、じゃがいも……っと」

  冷蔵庫に貼りつけてあるメモ用紙に買い物のメモを取る。
  ちゃちゃっとエプロンを着け、
  ピーラーでごぼうとにんじんを手際よく削って炒めてきんぴらを作り、
  昨日の残りの生姜焼きと卵焼きと並べてお弁当箱に詰めて、

雛鳥(ひな)「あちゃ、冷凍ブロッコリー切らしてる……。緑色が足りないけど、まいっか」

  「やばい、もうこんな時間」とテーブルに着く。
 
雛鳥(ひな)「朝ごはんさっさと食べちゃおっと」
雛鳥(ひな)M「一人きりがほとんど常なので、つい独り言が増えてしまう」

  お弁当の残り物をおかずにして大口を開け、
  トーストをほおばろうとした時。
  お父さんのパジャマを着た寝起きの瑠偉が
  のそりと廊下を挟んだ階段を降りてきて。

瑠偉「(くぐもった寝起き声で)ひ、な……? おはよ……」

  瑠偉、半分閉じた眠そうな目をして、
  片手でガシガシと後頭部をかいている。

雛鳥(ひな)M「待って、何?! って言うか、誰……っっ??」


《雛鳥M》

このいかにもモサっとした長身の青年は瑠偉さんだ。
だけど……「誰っ?」って叫びたくなるくらい、昨日とは見た目が違っている。
よほど寝相が悪いのか、パジャマはシワだらけになっていて、髪は寝癖がついてあちこちハネている。

《M終了》

  瑠偉の整えられていない前髪が、
  綺麗な顔の半分を隠してしまっている。

  ※乱れきった風貌の瑠偉

  のそのそと重そうに足を引きずりながら、
  瑠偉は食卓まで歩き、
  前髪を掻き上げながら雛鳥のお皿を覗き込む。

瑠偉「(目を細めて微笑んで)……いい匂い」
雛鳥(ひな)「ちょっと、顔が近いんですけどっ」

  雛鳥、思わずのけぞったが瑠偉はお構いなし。
  ふと目が合う。
  瑠偉、ご飯をねだる子犬みたいな目を向けてくる。

瑠偉「腹……減ったなぁ」
雛鳥(ひな)「う……」
雛鳥(ひな)「(仕方なさそうに)瑠偉さんも食べますか?」

  とたん——瑠偉は満面の笑顔になって、
  頭に生えたケモミミをぶんぶん縦に振るのが見えそうなほど、
  ひどく大袈裟にうなづいた。
  軽くため息をついた雛鳥が立ち上がって、
  冷蔵庫を覗いていると。

雛鳥(ひな)M「ん……?!」

  背後に気配を感じて雛鳥の背筋が伸びる。
  大きく見開いた目を肩の方にやると、
  雛鳥の肩のすぐ上に瑠偉の顔が、あって。

瑠偉「(嬉しそうに)何、作ってくれるの」

  瑠偉のささやくような言葉。
  雛鳥の耳元をかすめて、
  あたたかな息が雛鳥の頬にかかる。
 
雛鳥(ひな)「ひっ」

  のけぞった身長160センチの雛鳥を、
  186センチの瑠偉が不思議そうに見下ろしている。

瑠偉「ん……どうかした?」
雛鳥(ひな)「どうかしたって、こっちのセリフですっ。瑠偉さんこそ、び、びっくりするじゃないですか……!」
瑠偉「えっと……俺、何かしたかな」

  とろんと眠そうな目はそのままに、
  きょとんと頭をかく瑠偉。

雛鳥(ひな)M「おいおいあなた、そういう事をまさかの無自覚でやっちゃう人っ?!」

  かと思えば、
  瑠偉、ふあ〜っと大あくびをしてから、
 
瑠偉「(すがるように)ひな……俺の、朝ご飯……」

雛鳥(ひな)「はい?」

  ※雛鳥、仕方なさそうにレンチンしながら

雛鳥(ひな)M「両親の前だと謙虚で遠慮がちだったのに。なんか態度ちがうくないですかっ」

  雛鳥、色々腑に落ちないままで。
 
雛鳥(ひな)「(無愛想に)お弁当のおかずの残り物ですけど」
雛鳥(ひな)M「昨日の大人な好青年はどこへ?」

  瑠偉、尻尾を振りながらお行儀良く席に着いて待っている。
  雛鳥、あり合わせを皿に盛り付けて、
  瑠偉の前にことんと置く。

雛鳥(ひな)M「(少々呆れながらも)大きな身体をしてるのに……ほんと、ご飯を待ってる子犬みたい」

  お隣のゴールデンレトリバー『モフ』の姿が重なって、
  くすっと微笑(わら)ってしまう雛鳥。

雛鳥(ひな)「白ご飯はお弁当のぶんでなくなっちゃったので。パンは自分で焼いてくださいね」
瑠偉「(悲しみいっぱいの表情で)ぇぇっ……!」

  雛鳥が座ろうとするのを見上げて、
  瑠偉が子犬のような目をうるうるさせて訴える。
  呆れぎみに目を見開く雛鳥。

瑠偉「(目を輝かせて)これ、ひなが作ったの?」

  瑠偉のお箸の先は、
  照りのあるきんぴらと、
  黄金に煌めく卵焼きに向いている。
  
  ※ご飯がわりのトースト(←結局雛鳥が用意した)と熱いお茶も。

雛鳥(ひな)「そう、ですけど」

  瑠偉は機嫌が良さそうで、
  にこにこしながらお箸を口に運ぶ。

瑠偉「すごく美味いよ……! ひなはいい奥さんになれる」

  雛鳥、もりもり食べる瑠偉を見ながら、

雛鳥(ひな)M「料理は好きだし、こういう言葉は本来嬉しいものだろうけど」

  ※瑠偉のヨレヨレな風貌と嬉しそうに食べる様子

雛鳥(ひな)M「半分顔が隠れたボサ髪でヨレヨレのパジャマを着た人に言われてもっ」
雛鳥(ひな)M「(やっぱり呆れ気味の表情で)それに———。ひな、ひなって……呼び捨てを認めた覚えはないのですが?!」 

雛鳥(ひな)M「そんな事を考えているうちに、家を出る時間をとうに過ぎていた」
 



〇自宅前の大通り、横断歩道前(同日13時・晴天)

  学校帰り。
  大通りの横断歩道前に差し掛かった雛鳥は、
  よく晴れた空を仰いだ。
  赤信号で立ち止まる。
  ここからは、自宅兼和菓子屋の我が家がよく見える。

  信号待ちのあいだ、
 
雛鳥(ひな)M「ふぁ……気持ちい〜い! あの瑠偉ってひと、もう(うち)を出てるよね?」
雛鳥(ひな)M「(少しむくれて)あんな低い声でかわいく甘えてくるんだもん……お陰で遅刻しちゃったよっ」
雛鳥(ひな)M「(でもちょと見直して)なれなれしくてちょっと変わってたけど、稀に見るイケメンだったもんね」

  親友のさやかがスマホを見て驚く様子を想像して、

雛鳥(ひな)「証拠写真、撮っとけば良かったかな……」

  雛鳥、食材で膨らんだエコバックを抱えて横断歩道を渡る。

雛鳥(ひな)「特売の大根がキツい」

  横断歩道を渡り終えようとしたとき、
  雛鳥の脇を白いものが横切る。

雛鳥(ひな)M「え……猫ちゃん?!」

  点滅していた信号が赤色に変わろうとしている。
  停車中の車、動き出す。

雛鳥(ひな)「(無意識に駆け出して)危ないっ」

  ×  ×  ×

  雛鳥の両親が営む和菓子処「早乙女庵」の店先。

  雛鳥の両親、和菓子屋の作務衣。
  瑠偉、濃いグレーのスーツ姿。
  雛鳥の両親に礼を言って頭を下げる。
 
雛鳥の母(美咲)「そんなに(かしこ)まらなくてもいいのよ? 困った時はお互い様なんだから」

  雛鳥の父・和夫が、
  腕組みをしながらにこやかにうなづく。

瑠偉M「彼らは善良な人たちだ。そして警戒心が薄い。素性も知れない見ず知らずの男を大切な娘がいる家に招き入れ、何の疑いも懸念もなく泊めるなんて」
 
瑠偉M「二人とも親の愛情を受けて育ち、信頼できる人間に囲まれた人生を送ってきたんだろう。そして愛情によって育まれた彼らの愛情は、惜しみなく娘の雛鳥にも注がれている」
 
雛鳥の父(和夫)「瑠偉くん、ケータイは持ってるんだったな。ご両親にはもう連絡したのかい?」
瑠偉「このあと、します」
雛鳥の母(美咲)「記憶を無くしてるんだもの、誰かに電話するにしても戸惑っちゃうわよね。あ、捜索願いとか出てるかも知れないから警察にも行った方がいいわ」

  瑠偉は二度目の頭を下げる。

瑠偉「借りた治療費と交通費は後日ちゃんとお返しします。本当に……お世話になりました」

  瑠偉、雷の日に水没で壊れてしまったスマホを、
  ズボンのポケットの中で強く握る。
  
瑠偉M「彼らの親切は有難いが、見ず知らずの人たちにこれ以上迷惑をかけるわけにもいかない」
瑠偉M「さて、この後どうする」
瑠偉M「(ちら、とポケットを見やって)せめてスマホが生きていれば良かったが」

  踵を返そうとした時。
  瑠偉の耳に届いた、
  「おい、あの子危ないぞ」と言う切羽詰まったような声。

  見れば、覚えのある制服の子が点滅を終えて赤になった信号機を無視して、
  横断歩道に駆け入るところだった。
  片側三車線の道路構造は複雑で、歩行者の信号が赤に変わったと同時に、
  時差式で十字路から左折可の青矢印が出る。

  雛鳥の両親、同時に、

雛鳥の母(美咲)「え、ひなちゃん!?」
雛鳥の父(和夫)「ひなぁ……!」

  十字路から大型のトラックが交差点に侵入し、
  雛鳥が渡る横断歩道に向かって左折しようとしていた。

  ×  ×  ×

  赤信号を渡る猫に気付いた雛鳥。
  咄嗟(とっさ)に伸びたのは、
  学校の制鞄を肩に掛けた右腕。
  左腕にはパンパンのエコバックがずっしりと重く、
  思うようには動けない。

  それでも無我夢中で駆け寄ってしゃがめば、
  白い猫が驚いて足を止め、雛鳥を見上げた。
  白黒まだらな猫の顔が、
  スローモーションみたいな速度で大写しになる。

雛鳥(ひな)M「もう大丈夫だよ……っ」

  祈りのような言葉が頭をよぎれば、
  あいた右腕で猫のお腹を持ち上げた。
  肩にかけた鞄がずり落ちたけれど気にしない。

  ファン!!
  クラクションの爆音が雛鳥の耳に届く。
  音のする方に目を向けた雛鳥の時間が止まった。

  ————ザザッ。

  唐突に大きな衝撃に包まれ、目を閉じる。
  心臓の鼓動がドクドクうるさいほど雛鳥の耳を叩く。

  ファン……
  爆音がもう一度怒鳴った直後、

トラックの運転手「急に飛び出しやがって! 危ねーだろッ!!」

  高い場所から車窓を下げて怒鳴る声を合図に、
  おそるおそる目を開けば……

雛鳥(ひな)M「男の人の、腕……?」 

  猫を抱えた雛鳥の身体ごと包むように、
  たくましい男性の腕が後ろから雛鳥を抱いている。
  
雛鳥(ひな)M「誰かが私の背中を抱えて路肩まで引き戻してくれたようだ」

  「にゃぁ」ひと鳴きすると、猫は雛鳥の腕をするりと抜け出した。
  そして何事もなかったように歩道を闊歩し、裏通りの物影に消えてしまう。

  ぶおん、と走り去るトラック。
  投げ出されたエコバックから転がったジャガイモと、
  黒光りする《瑠偉のスマホ》がグシャリと轢き潰された。
 
瑠偉「気づくのが少し遅かったら、危なかった」

  ※声だけ、姿は見えない

  その『誰か』は、
  雛鳥の背中を抱えた状態で路肩に尻もちをついていた。

雛鳥(ひな)M「この声……」
雛鳥(ひな)「(ひどく驚いて)るっ、瑠偉……さん……?!」

  雛鳥が顔を上げて目を向けようとすると、
  頭をこつん、と軽く叩かれた。

瑠偉「(冷ややかに雛鳥を見下ろして)ご両親の目の前で死にたいのか?!」

  ※雛鳥たちに向かって駆け寄る両親

雛鳥(ひな)の両親「ひなぁぁぁ…………!!」
  

雛鳥(ひな)M》

  ※雛鳥と瑠偉、ふたり真剣な顔で見つめ合っている図

そんな両親の涙声にも似た叫びが近づく頃にはもう、身体は解放されていて。

なぜだろう、とても静かだ。
周囲の(ざわ)ついた声なんて、少しも耳に入らないのに。
けれどこの人の声だけは、はっきりと、聞こえて。

相変わらずドクンドクンと脈打つ鼓動に驚きながら。
私はスーツ姿の背中に光をまとった瑠偉さんを、ただ呆然と見上げていた。

《M終了》


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