ジングルベルは、もう鳴らない
「では、私はこの辺で失礼致します。コーヒーのお代は、いくらでしょうか」
「あぁ気にしないで。これは、大丈夫」
「そうですか。ありがとうございます。ごちそうさまでした」


 杓子定規だなと思いつつも、ここはそう対応する。今は仕事。あくまで、商品化の話を持って来た会社の人間に徹する。だが、美味しかったです、とだけは微笑み返した。


「匡、送って差し上げなさいよ。暗くなってきたし、こんな若いお嬢さん一人じゃ心配じゃない」
「いやいやいや。大丈夫ですよ。いつももっと遅い時間に帰ってますし。ご心配いただいて、ありがとうございます。では、失礼します。何卒、よろしくお願いします」


 樹里は躊躇いなく、入口へ向かった。斎藤がドアまで来て、母さんがごめんね、と囁いた。それから、また連絡しますね、と笑う。自然と視線がぶつかって、思わず目を逸らしてしまった。ドクン、と跳ねた鼓動が煩い。じゃあまた、と彼に告げたのは、仕事で(・・・)という意味かは分からなかった。

 店から一歩出て、動揺している自分に問い掛けた。どうしよう。こうして仕事で会い続けたら、本当に好きになってしまうんじゃないか。樹里は、淡い恋のまま終わらせたい。ダメだ。もう一度蓋をしよう。そう固く誓いながら、扉から手を離した。
閉じていく扉の向こうから、元気な母親の声が届く。「匡、今日はヒロミちゃん来ないの?」と。
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