ジングルベルは、もう鳴らない
「あれ、こんばんは。今お帰りですか」


 家に帰ってからのシミュレーションを悶々としていたら、急に声を掛けられ身を縮めた。恐る恐るそちらへ目をやれば、嬉しそうに尻尾を振るブンタと優しそうな飼い主。これから散歩なのだろう。彼らはマンションから出てきたところだった。気難しい顔を何とか口角を上げて誤魔化して、代わりに笑顔を乗せた。お疲れ様です、と丁寧にお辞儀をする飼い主を見上げてから、ブンタはワンと元気に吠える。


「こんばんは。ブンタ、今日もパパとお散歩いいねぇ」
「大丈夫ですか。何だかちょっとお疲れみたいですね」
「あぁ、ちょっと。仕事で嫌なことがあって。でもまぁ、仕方ない話なんです。色んな人がいれば、色んな意見があって、色んな感覚があるんですから」


 部長の何も悪いと感じていない顔が浮ぶ。女は、もっと早く結婚しなければいけない。何なら、子供を産み育てて、家にいなければいけない。そんなことを言う年代でないと思っていたが、根底にその気持ちがあるのだろう。傷付いた心は、一向に上がって来なかった。


「あの……ブンタ、触ってもいいですか」
「あっ、はい。どうぞ。多分、撫でられる気でいるので……寧ろお願いします」


 呆れた顔をして、彼はブンタに目をやる。確かにブンタは、もう撫でられる気満々のようだ。それがとても愛らしくて、自然と頬が緩んだ。あぁ前にもこんなことがあったな。ブンタに触れた温もりは、いつも心を解してくれる。それに、飼い主である彼の穏やかな声。何もかもうまくいかない時は、やっぱり誰かに優しくされたい。
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