ジングルベルは、もう鳴らない
 自分の部屋のドアを開け、ただいま、と暗い部屋に向かって言った。どんなに嫌なことがあっても、疲れていても、そうしている。もう習慣なのだろう。中途半端に掃除された部屋。投げ出されたままのパソコン。あぁそうだ。千裕の亡霊と闘っていたんだ。そんなこと、もうすっかり忘れていた。負の感情は消え去り、今は頬が緩んでいる。


「単純だな」


 鏡の中の自分が苦笑いする。別れた男を完全に忘れるには、新しい恋しかない。朱莉とそんな話をしたことがあった。千裕への感情を抹消するには、上書きするのが一番簡単だ。確かにそうかも知れない。確かにある温かな想いが、少しずつ嫌な気持ちを塗り替えている。

 では、これは恋なのか。それはない、と思っている。今はまだ、それを肯定するにも、否定するにも自信がなかった。ただ、斎藤をもう少し知りたい気持ちは僅かにある。下の名前は何というんだろう。彼はいくつなんだろう。そんな些細なことが気になって、知りたいと思うようになった。果たしてそれは、恋と呼べるのだろうか。シャワーを浴びながら、鼻歌を歌っていた自分に気付く。今の斎藤の状況を考えれば、浮かれている場合ではないのに。パシンと両頬を叩いて、体についた泡を綺麗に流した。浴室を出て、すぐに携帯を確認するが、斎藤からの連絡はまだない。母親は無事だろうか。


「動きやすくて、お散歩にも行けるくらいの服……」


 ぶつぶつ言いながら、クローゼットを漁る。斎藤がもし帰って来ても、恥ずかしくない程度にはしておきたい。手に取ったのは、大きめのスウェットパーカーとワイドパンツ。これならゴロゴロも出来るし、散歩にも行ける。あぁそれから、薄化粧くらいはしておくべきか。鏡に映る自分は、やはりどこか緩んでいる。温かいお茶を用意して、ポットに注ぐ。バッテリー、ブランケット、一応パソコン。全部トートバッグに詰め込んだ。足りないものがあれば戻ればいいけれど、できるだけブンタが心細くないようにしたい。初めて犬と過ごす夜だ。不安とワクワクと、色んな気持ちがあった。自分の部屋の鍵をかけ、すぐに隣の鍵を開ける。何だか変な感じだな、と思いつつ、そのドアを引いた。「ただいま」と言う声が、さっきよりずっと弾んでいる。
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