八月の蛍、あの夏の歌

20

「まずは……うーん。何から話せば良いのかな……」
 灰坂は丸太のベンチに腰掛けて、溜め息と深呼吸の間のような呼吸をする。少し間を空けた隣に腰を下ろした僕は、少しだけ鼓動が大きくなる心臓をごまかすように微笑んだ。
「何でもいいよ。もう時間は気にしないで話そうよ今日は」
 僕の言葉に灰坂は小さく頷いて、目の前に広がる村の風景に少し悲しそうな笑顔を向けた。
「うん、わかった。そうだね。何て言うか、まぁその何となく察してると思うんだけど、そう……私、イジメにあってたんだ。改めて自分の口から言うのも恥ずかしくて嫌なんだけど……でも、こうして一度言ってしまったらもうホタルに恥ずかしがる必要も無いよね? うん。私はイジメられてた。クラス全員から」

 ……クラス全員。

 灰坂は割とさらっと言ってしまったけど、これは僕の予想を遥かに超えていた。大方、女子グループにありがちな仲間外れみたいなイジメだとばっかり思っていたけれど、どうやらこれは結構深刻そうだ。
 僕は変に口を挟まずに、同じ風景を眺めながら灰坂の言葉を待つ。
「あー、何だか口にするとどんどん思い出して来ちゃうね。って事はここ最近忘れていたのかな? きっとボイトレに必死だったからだね。まぁそれはいっか。それでさ、イジメの始まりなんだけど……実は、今でもよく分かってないんだ」
「え? どういうこと?」
 思わず挟んでしまった僕の言葉に、灰坂は少し微笑んで続けた。
「だから、わかんないの。ある日突然、学校に行ったらなんか無視されるようになってた。信じられる? 前の日は変わった事なんて一つもなかったのに、あんなに仲良く話して笑ってたのに、一晩明けたらいきなり全員無視だよ? もう何がなんだかわからなくて……その日の事は、その後一日どう過ごしたのかも記憶が曖昧なくらい」
「それ、ほんとに訳分かんないね。僕の前の学校でもそんなのはなかったな」
 灰坂は微笑みを崩さない。でも決してこちらに振り向こうとはせず、話を続けた。
「でも、そこからが最悪。何もされないの。物隠されたり捨てられたり、悪口言われたりもなくて。ただずっと無視されてた。相手にされないってこんなにつらいんだって思ったよ……ずっと一人で。おかしくなりそうだった。もう、ずっと『私、何したんだろう?』って原因を探して、探して、なんでもない事でも、どんな小さな事でも何でも掘り起こしてはみんなに謝った。でも……無視」
「先生や親には……って言わなかったの? 他のクラスの人は?」
 灰坂は何かを嘲るようにフッと息を吐いた。
「あれって不思議でさ。突き放されれば突き放される程に何故か固執しちゃうの。もう、おかしくなってたんだろううね。親にも先生にも言わずに、私が悪いんだって勝手に思い込むようになっちゃって。ひたすら何を謝るかしか考えてなかった。今、思えば早く先生や親に言って他のクラスの子にでも話しかければ良かったのにって思うんだけどね。でも、その時の私はずっと狭い世界しか見えてなかった。私にとってあのクラスが世界の全てで、何とかまたこの世界で私の存在を認めてもらわなきゃ……ってね。友情って言葉がその時は凄く残酷だったな。今にして思えば、私がしがみつこうとしてたのは友情でも何でもなかったんだろうけどね」
 灰坂は深く、重たく、息を吐いた。僕が「大丈夫?」と聞いても、こっちを見ずに頷くだけだった。灰坂の微笑みはもうほとんど消えかけていた。
「で、結局……心よりも体が先に壊れちゃった。登校の時間になるとね? 決まってお腹が痛くなるの。ギュウって握りつぶされる様に。そこからはもう早かった。私はそれでも何も言わなかったけど、両親は察したみたいでさ。直ぐに学校に言ってくれて。でも別に何かされたわけじゃないし、私も何も言わなかったから、学校側も何もできなくて。それで痺れを切らした両親がこの転校を決めたってわけ。まぁ……こんな所かな」
 ……何と言うか、理解が出来なかった。
 無視が起きた原因もまるで掴めないし、その世界に固執した灰坂の行動も理解出来ない。話をまとめてしまえば思った通り『絵に描いたような転校劇』だけれど、その詳細は僕の考えなんか及ばない所にあった。
 苛められた経験がある者にしか、それは分からない気持ちなんだろうか?
 だとしたら、僕には一生かかっても分からない気持ちなのかも知れない。でも、この話を聞いて、少しの間だけど灰坂と一緒に居て、僕の心に一つだけ確信が一つある。
 灰坂がクラス全員から無視されるような事したなんて絶対にありえない。
 まだ知り合って間もないけど、知らない事もまだまだ沢山あるんだろうけど、それだけは僕の中で揺るぎなかった。
「……うん。話してくれてありがとう。あとさ、何個か質問良いかな?」
 僕は浅く息を吐いて、灰坂に振り向く。灰坂はやっぱり景色に目を投げたまま、僕に手の平を向けた。
「どうぞ」
「両親は何で一緒に来なかったの?」
「それは私が断ったの。最後の最後まで粘られたけどね。二人とも働いていたし、これ以上迷惑かけたくなかったから。それに引っ越す頃にはもう大分回復してたしね。だから、毎日連絡するって条件つけてようやく引き下がってもらった感じ。かな?」
 また微笑みながら話す灰坂の横顔が何だかひどく儚く見えてしまって、僕は余計に悲しくなってしまった。どうしてこんなに真面目で一生懸命で普通な女の子が、こんな思いをしなくてはならないのだろうか。
 僕にはやっぱり分からなくて、分からないから聞くしか無かった。
「そのクラスメイトに仕返ししてやりたいとか思わないの?」
「うーん、思わないな」
「それは、どうして?」
「なんかね。学校行けなくなった時は『どうしようどうしよう』ってずっと考えてたのに、しばらく行けない日が続くと、それが段々どうでも良くなっていくんだよね。それで最終的には何でも良いからもう関わりたくないって思う様になってさ。そしたらだんだん回復して来たから、今となってはもう別に二度と会わなければそれで良いかなって」
「そっか。それで……」
「うん?」
「いや……」
 灰坂が目線だけこっちに向けて来たけど、逆に僕が前に向き直ってしまった。
 恐らくこの『関わりたくない』って言うのはそのクラス全員だけではなく、全ての他人について言っているんだろうなって思った。灰坂は人と関わるのを止める事で自分を守ったんだ。
 でも、やっぱり僕には納得出来ない。そんな筈が無いって思ってしまう。期待と言うか、希望と言うか、根拠の無い信頼みたいな真っ直ぐな気持ちがどうしても僕は消せずに居た。
 ————灰坂は絶対に後悔している筈なんだ。
 そんな、願いにも似た確たる証拠の無い確信が僕を諦めさせなかった。
「じゃ、次の質問。イジメに音痴はあんまり関係ないみたいだけど、今まで歌わなかったのは何で?」
 僕がまた振り向くと、灰坂は逃げるように視線を外した。
「そ、それは……音痴がバレたら、変に練習させられそうで……それに、こっちの人っておせっかいだから。みんなも練習付き合うって言って関わってきそうだし……」
 ただでさえ気を使われてるのに。と消え入りそうな声で呟いて、灰坂は俯いた。
「それはつまり、歌う気はないと思わせれば関わろうとして来ないだろうと予防線を張ったって事?」
「……そう」
「じゃあ何で練習してたの?」
 灰坂はビクッと体が反応したけど、俯いたまま口を開かなかった。僕は胸のあたりが少し苦しくなって、初めて灰坂と話をした時の事を思い出した。
「まぁ灰坂が歌わないせいで大ごとになっちゃったしね。無理ないか。でもさ、これは僕の勝手な想像なんだけど、灰坂はこれをチャンスだと思ったんじゃないのかな? これをキッカケに変わろうとしたんじゃないのかな? そしてこれも僕の想像なんだけど、灰坂はみんなと……友達になりたいってホントは思ってるんじゃない?」
「……それは」
 灰坂が口を開くのを遮る様に、僕は更に言葉を投げつける。
「だから僕の作戦にも乗って来た。本当ならやり過ごす事も出来た筈なんだ。簡単だよ。祭りが終わるまで学校に行かなければ良い。関わりたくないなら、前の学校の時みたいにそうすれば良いだけの話なんだ。でも、今回は違う。灰坂は歌う事を選んだ。みんなに迷惑かけないように隠れて練習までしてた」
「もうやめてよ!」
 ようやくこっちを向いた灰坂はその目に今にも溢れそうな程、涙を溜めていた。横から見ていたら微笑んでいる様に見えていたけれど、灰坂はずっと涙を堪えて無理矢理笑顔を作っていたんだ。
 そんな灰坂と見合うと、更に僕の胸は苦しくなった。それでも僕は話を止めない。もう僕には証拠があったから。灰坂のその目が何よりの証拠だったから。
「いつからか……友達になりたいって、もう一回友情ってものを信じてみようって思えていたんでしょ? きっとここの人達なら、みんなならって。もう、分かってたんじゃないの? ただタイミングを外しちゃって、時間が過ぎて行くうちに自分でもどうしたらいいのかわからなくなって。色々葛藤して。それでも答えがでなかったんじゃないの?」
「……ホタルは……何でそう思うの?」
「あのクラスの人の良さは端から見てても十分分かるじゃん。時間はかかったかも知れないけど、灰坂は気づいたんだ。世界は一つじゃない事に。狭くてもそれは沢山あるって事に。でも最初に突っぱねちゃったから、気づいた時にはもう遅くて。それを続けるしか無かった。自分を騙してながら。わかるよ。灰坂の真剣にボイトレに向き合う姿を見てたら。頑張って足掻こうとしてる事くらい。僕には分かる」
「……ホタル」
 灰坂は静かに、ゆっくり頷いた。きっとずっと苦しんでいたんだろう。灰坂の目から涙がぽろぽろと零れた。僕は真っ直ぐに灰坂の目を見て、僕の心にずっと引っかかっていた一番気になっていた事への確信を持って核心を突く。
「灰坂が誰にも関わりたくなくて閉ざしてた扉を、ずっとノックし続けた人がいるよね? その時、灰坂は追い返したみたいだけど、それがキッカケでまた悩む様になったんじゃないの? 悩んで、悩んで、そしてきっと扉は閉めたままだったけど、鍵だけ開けてたんだ。いつでも入って来れる様に。だから僕は入れたんだよ。でもさ、鍵を開けてたのは僕の為じゃないんでしょ? 本当は……ユキの為だったんでしょ?」
 灰坂は俯き加減に目を瞑って、口を塞いだ。それでも涙は止まらず、嗚咽は漏れて来る。
 やっぱり灰坂もずっと気にしてたんだ。
 ユキの気持ちは時間がかかったけどちゃんと灰坂に届いていて、そして人知れず灰坂はそれに答えようとしてたんだ。
 すごいよユキ。やっぱり君は僕だけじゃなく、灰坂も助けてたんだ。
「……灰坂」
 僕はスカートを掴んでいる灰坂の手を取った。苦しかった胸が破裂しそうになった。
「そ、その……ユキもね。今でも灰坂の事気にしてるんだ。でも、灰坂が扉の鍵を開けている事を知らない。そして昔の灰坂みたいに関わる事を恐れる様になってる。僕はそれをどうする事も出来なかった。だから灰坂。今度は君がユキの扉を開けてくれないか?」
 灰坂にしか出来ないんだ。僕はそう付け足して、灰坂の手を両手で握った。
 お願いだ。変わるなら今だ。お互い気にしているのにすれ違ったままなんてあんまりだ。
 灰坂。後は自分で動くしかない。僕に出来るのはここまでだ。
 ————僕の手がギュッと握り返される。
「……灰坂?」
 灰坂は真っ赤な目をして僕に微笑むと、しっかりと頷いた。
「ありがとう……ホタル。私、ユキと……友達になりたい」
 聞きたかった言葉が聞けた。灰坂と日々を過ごしていくうちに僕の中でどんどん膨らんでいった疑問が、この一言で一瞬にして晴れてしまった。
「なれるよ。なれる。だって灰坂すごく真面目ですごく女の子らしくて、ホントにユキが大好きなタイプって感じなんだ。だからすごく気が合いそう」
 僕の目の前で笑う女の子が、とても綺麗に見えた。儚くも一生懸命泣いて笑うその顔は灰坂の本当の顔だと思った。僕は何だかとても嬉しくて、握り返された手をしばらく離せなかった。
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