八月の蛍、あの夏の歌

26

 昼前に起きるのは久しぶりだった。いつもより沢山寝た筈なのに、いつもより何だか気怠い。朝とさして変わらない景色だけれど、温度は段違いだ。重たい頭にけたたましく聞こえて来る蝉の声が恨めしい。快活な空も嫌味に感じる程だ。
 今日から合唱練習が始まる。僕はゆっくりと着替えを済ませて、居間で一人、ソーメンを食べ終えたら仕度を済ませて早々に学校へと向かった。
 休みの日は自転車で学校に行けるから快適だ。ペダルを漕ぎだして風を感じると、だんだん頭がスッキリしてくる。このまま行けばかなり早く学校に着いてしまうけれど、スピードを落とす気にはならない。僕のマウンテンバイクはコンクリートで舗装された道より、こっちの土がむき出しで砂利なんかがある道の方が力を発揮する。そこまでのスピードは出ないけれど本領発揮したマウンテンバイクは運転していて気持ちが良かった。
「よう! ホタル!」
 校門の脇に自転車を止めていると、カズが自慢のママチャリを横に止めた。
「カズにしては早いね」
「まぁな! ってか相変わらずカッケーな!」
 カズは僕のマウンテンバイクのサドルをバシバシ叩く。
「どうしたの? 一昨日とはえらい違いじゃん」
「まぁな!」
まともに会話が出来そうにないなと思った僕は、それ以上何も聞かなかった。
 機嫌が良いカズは校庭を真っ直ぐ突っ切って校舎に向かう間も、終始笑っていた。
 この変わりようは一体何なんだろう?


 音楽室につくと、既に何人かの男女が席に座っていた。
「ホタル! 久しぶりじゃん!」
 スギが僕に手を挙げる。でも何故かカズが先に手を振り返す。僕は挙げた手でカズを軽く引っ叩いてスギの隣に座った。
「ホタル全然プール来ないじゃん。カズは仕方ないけどさ」
「あぁ、うん。家の手伝いが色々あってさ」
「そっかー。引っ越して来たばっかだもんな。なんか手伝う事あったら言ってよ」
 スギは「それにしても暑いなぁ」と気怠そうに机に突っ伏して笑った。
 僕は「ありがとう」と微笑み返して、何て事は無い疑問を口にしてみた。
「タダシはやっぱりプールで……」
 僕がそこまで言うと、机に突っ伏したままスギはクスクス笑う。
「あぁ。あいつ温泉と勘違いしてるんだきっと」
「ふふっ、それは言えてるかもね」
 僕にもスギにも、きっと誰にもタダシが何を考えているかまるでわからない。
 でも、それを思い出すだけで何だかプールに入りたくなって来た。
「おはよー!」
 ユキが音楽室に入って来ると、僕らと一緒になって笑っていたカズが慌てて机に伏せる。どうやら禁ユキ生活が終わったわけじゃないみたいだ。
「おはよ!」
 僕とスギは座ったまま挨拶を返す。カズは机に顔を伏せたまま全く動かない。ユキはそれに気づいたようで「何企んでんのよ」とカズの刈り込まれた後頭部をバシッと叩いて、女子達の元へと去っていった。
「……へへへ」
 叩かれた後頭部を丁寧に擦りながら、ゆっくりと顔を上げたカズは恐ろしい程に恍惚に満ちた表情を浮かべていて、僕とスギを呆れさせた。
 ————音楽室には集合の十三時前にもうみんな集まっていて、少しだけ騒々しい。
 しかし、十三時になって先生がやって来ると、みんなは私語をやめて前に向き直った。先生はみんなと目を合わせるようにゆっくりと顔を動かすと微笑んだ。
「うん。欠席者無し。それじゃ早速始めましょう」
 先生の号令と共にみんなが立ち上がり、ピアノの前にパート毎に並んだ。僕はピアノの椅子を調整して、鍵盤蓋を開ける。見なくても弾けるけど、楽譜をセットして顔を上げた。
「先生。指揮は……」
 僕と目を合わせた先生は微笑みを崩さず、首を横に振った。
「今日は私がやります」
 僕は黙って頷いた。きっと、みんなの頭の中に同じ言葉が浮かんだと思う。
 ……カズは大丈夫なのか?
 僕は不安に駆られてカズの方に振り向くと、カズは以前と全く変わらないニヤニヤ顔で指揮棒を自分の手の平にペシペシさせながら僕を見ていた。
 その慢心全開の顔には妙な説得力があって、だけど膨らむ不安は全く解消されない。
 何が何やらわからないけれど、考えても仕方が無いので僕は先生の指揮に集中して伴奏を弾き始めた。
 先生が指揮で合図して、歌が入る。
 うん。前より少し良い感じ、に聞こえなくもない。
 成長していると言うよりか、これは「慣れ」だ。故にごまかしがきかない部分はやっぱり全然まとまっていない。だけど、まぁ良い。気にしない気にしない。最初からそんなに期待していた訳じゃないから、どんなにヒドくても気にならないとは思っていたけれど、予想よりかなりマシだ。
 僕は心を落ち着けて、指揮越しに灰坂を見る。
 灰坂も僕を見ていた。口を開かず。むしろ唇を噛み締めて。ちゃんと打ち合わせ通りにやってくれていた。
 僕は歯を食いしばり、計画の成功を改めて誓った。
 ————頑張れ、灰坂。
「はい! お疲れさまでした! じゃあみんなまた三日後ね!」
 練習が終わり、先生が去って行くと、みんなはバラバラに帰っていった。カズはこの後また居残り特訓があるらしい。
「ホタル! 一緒に帰ろ!」
「あ、ユキ。そうだね、帰ろうか」
 目の前に現れたユキの言葉で、僕は立ち上がる。気付けば音楽室には僕とユキしか居なくなっていた。どうやら僕が上の空だった間に、灰坂は帰ったらしい。
 灰坂はどんな感じで帰ったんだろう。僕は今日の灰坂を思い出して少し胸が痛くなったーーーー。



「ねぇホタル」
「うん?」
 並んで自転車を漕ぎながら、僕とユキは顔を見合う。
「作戦のためって分かってるけど、やっぱりちょっとつらいよね」
「灰坂の事?」
「……うん」
 ユキもやっぱり灰坂が気になるみたいだ。
 やっと友達になれたのに、しばらくは今まで通り関わらないようにしないといけないから、やっぱりつらいんだろう。
 僕はまた今日の灰坂を思い出して胸が痛む。
「でも、一番つらいのは灰坂だからさ。その灰坂が耐えてる以上は僕らも耐えなきゃ。でもユキ、それも後一回だけだよ。後一回耐えれば決行だ。だから僕らも頑張ろう」
 ユキは僕の言葉に何度も頷いた。
「そうだね。その通りだね。うん! 後一回! 頑張ろう!」
 僕とユキは二人で頷き合って、気持ちを切り替えた。そう、作戦実行は次の合唱練習が終わった後に実行されていく。だから、もう一踏ん張りだ。
 僕は頬を叩いて、自分に気合いを入れる。
「よし! じゃあユキまた!」
「うん! また!」
 ユキと別れて僕は思いっきりペダルを漕いだ。



 ————家に着くと、僕の部屋から携帯の音が微かに聞こえて来た。
「ん? メール?」
 急いで部屋に入り、携帯を開く。差出人は灰坂だった。
『今から会えないかな? いつもの神社で』
 もしかして、今日の空気に耐えられずに心が折れてしまったのだろうか。僕は直ぐに『わかった。直ぐに行く』と返信して、また玄関に戻った。
 もし、灰坂の心に予想以上の負担をかけてしまっているのなら、作戦変更もやむを得ない。効果は薄くなるけれど、決行時期を早めた分を僕が何とか埋められれば何とか出来るかも知れない。リスクは上がるけれど、このまま灰坂が壊れてしまうくらいなら、僕はそっちを選ぶ。もうこの作戦は僕だけの為じゃなくなっていた。
 どうにか上手く行く算段を頭の中で何度も組み立て直しながら、僕は必死にペダルを漕いで神社を目指した。
「————お、お待たせ」
 キツい石段を一気に駆け上がったせいで息切れが激しく、僕は膝に手をついてそれだけ言うのが精一杯だった。灰坂は丸太のベンチから僕に駆け寄って来て、必死に息を整えている僕の目の前でしゃがみ、目線を合わせた。
「大丈夫? ごめん急に呼び出したりして」
 申し訳なさそうな顔をする灰坂の肩を両手で掴んで、僕は深呼吸して息を整えた。
「いいからね。無理しないで。キツかったら僕が何とかするからちゃんと言って。遠慮なんかいらないから」
 灰坂は僕と合わせていた目をまん丸く見開くと、一息置いてからプッと吹き出した。
「え? な、何かおかしな事言った?」
 灰坂は笑いを堪えているような顔で首を横に振った。僕は思わぬ灰坂の反応に思考がこんがらがってしまう。恥ずかしさだけが急に込み上げて来て、とりあえず灰坂の肩から手を離して立ち上がった。
「と、とりあえず座ろうか」
 返事も待たず、僕はベンチに向かう。恥ずかしさを打ち消すようにドカッと音を立てて座ると、隣に腰を下ろした灰坂がまだクスクス笑っているので、何だか腹が立って来た。
「一体何だって言うんだよ。どうしたの?」
「いや、ごめん。ごめんね」
 あー、すごい笑っちゃった。と灰坂は目元をゴシゴシ擦って僕に頭を下げた。
「ありがとう。来てくれて」
「いや、それはいいんだけど……」
「本当はさっきまでちょっと落ち込んでたんだけど、なんかどうでも良くなっちゃった」
 灰坂は顔を上げると微笑んだ。少し、距離が近かった。
「あんな事言われちゃったら、意地でも成功させたくなるよ。元々やめるなんて言うつもりも無かったけどね。ただちょっとだけ励ましてもらいたくなっちゃったんだ……でも、ホタルが想像以上の言葉をくれたからもういいかな……あ!」
「え? なに?」
 顔が熱くなっている僕に、灰坂は人差し指を立てる。
「一つだけ。一言で良いから今日頑張ったって褒めてくれない?」
「ん? 今日は良く頑張ったね。えらい。すごいよ」
 なるべく感情を込めずに僕が言うと、灰坂は「一言で良いのに!」とまた笑って目の前の景色に振り返った。
「ありがとう……ホタル」
「いえいえ。どういたしまして」
どんなに綺麗な風景でもきっと見慣れてしまうのに、ここから見えるちっぽけな風景はいつだって違って見えるのが不思議だった。見晴らしは良いけど何も無い。なのにどんなに見ていても飽きる事なんてなさそうな気さえしてくる。
「あ、そうだ。ホタルさ。明後日、私の家に来れないかな?」
「え? 何で急に?」
 またお互いに向き合う形になり、僕は少し顔を引いた。
「おばあちゃんがね。毎日何やってるんだって言うから、ホタルの事とか色々説明したら一回会わせろってうるさくなっちゃって。だからおばあちゃんに会ってくれない?」
「いや……え?」
 とんでもない言葉に一瞬、僕は言葉を失ったけど、すぐに冷静さを取り戻した。
 灰坂のおばあちゃんが会わせろって事は、別に変な意味ではなく、ただ単純に孫が世話になっているから会っておきたいって事だろう。要は、僕は変な奴じゃないから安心して下さいって言いに行くようなものだ。大切な孫を預かっているわけだから心配しているのかもしれない。こっちに来た事情が事情な訳だし。
「うん、わかった。いいよ」
「ほんと! ありがとう、おばあちゃん本当に会いたいみたいで」
 僕は「いえいえ」と目の前の景色に向き直り、バレないようにそっと溜め息を吐いた。クラスメイトの女子の家に挨拶に行くなんて、一体どんな状況だ。別に結婚の申し込みをしにいくわけじゃないけれど、変に緊張してしまう。ご両親じゃないだけマシかも知れないけれど、何を話せば良いのかさっぱり見当がつかない。具体的に練習方法を話すわけでもないだろうし。質問に答えるだけなら良いのだけれど、もし向こうが僕から口を開くのを待つスタイルだったらと考えると背筋がゾッとする。
「……ちなみに聞くけど。怒られたりしないよね?」
「え? なんで?」
「だって僕は今の所、大事な孫娘を毎日連れ回している得体の知れない男な訳でしょ?」
 僕は自分を指差して悲しくなる。別に警戒するような人間じゃないんだけれど。
「何それ? そんなわけ無いじゃん。おばあちゃんは私が感謝している事知ってるから、お礼が言いたいんじゃないかな? まぁ得体の知れない男の姿を一目見てみたいってのもあるかも知れないけどね」
 灰坂は呆れたように溜め息をついた後、イタズラな顔で笑った。
「勘弁してよ……」
 まだ見ぬおばあちゃんの姿を想像して僕が肩を落とすと、肩をパシッと叩かれた。
「冗談よ。でも今日は本当にありがとう。また明日ボイトレで!」
 灰坂はそう言うとスッと立ち上がり、走り出した。
「あ、送ってくよ!」
 慌てて立ち上がって離れる背中に声をかけると、灰坂は石段の前でくるっと振り返った。
「今日はもう十分! ありがと!」
 灰坂は大きく手を振って、石段を駆け下りて行った。僕はそれを見送って、またベンチに座り直す。嫌な緊張感が鈍く全身を覆った。
 まぁ考えても仕方が無い。とにかく作戦は続行で大丈夫そうだ。最悪の結果は免れた訳だし、このままいけばむしろ最高の結果が待っているかも知れない。とにかく僕は明後日をしっかり乗り切って結構に向けて集中しなくては。
 頬を叩いて、決意新たに立ち上がる。ほとんど沈みかけた夕日にふと、不安がよぎった。
「カズ……大丈夫だよな?」
 いくら僕でもこればっかりはどうする事も出来ない。神のみぞ、いや、この場合カズのみぞ知るだな。とにかく今度先生に話す時にでも聞いておこう。まだまだ油断は出来ない。
 僕は明後日のシミュレーションをしながら、ゆっくりと石段を下りていく。ただ、全然予想が付けられないせいで、下り切る頃にはすっかり薄暗くなってしまった。
「……あれ?」
 ぼんやりしたまま自転車の鍵を外すと、サドルに飴玉が置いてある事に気づいた。その下にはノートの切れ端が置いてある。
『ありがとう。頑張ろうね!』
 僕は切れ端をポケットにしまって、飴玉を口に放り込んだ。クリームソーダの風味が口の中に広がった。
「よし!」
 凪いでいた風が流れ出す。帰りのペダルはとても軽やかだった————。
 
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