八月の蛍、あの夏の歌

28

 翌日、気がかりだった試練を越えて気合いを入れ直した僕は、合唱練習の相変わらずな雰囲気にも一切、不安を感じる事無く、冷静に分析が出来ていた。
 ダレているとかズレているとかそう言う事だけではなく、もっと根本の部分でチグハグな合唱がみんなの心の中を物語っている。ハッキリ言って空気は全然良くない。それでも灰坂はこの空気にしっかりと耐えてみせた。合唱中にチラチラと灰坂を確認する女子も居たのに、黙って口を閉じて耐えていた。
 ————一応、何事も無く練習は終わった。惰性にも感じる空気は文字通り「何事も無く」て、成長も意味も無く感じているのはきっと僕だけじゃないと思う。このままじゃいけないと思っているのはみんな同じだと信じて、僕はみんなが帰った後にピアノの傍で居残っていた先生とカズの元へ向かった。
「先生。お話があるんですけど、ちょっと来て頂いていいですか?」
「あら。話? ここじゃダメなの?」
 僕はヘラヘラしているカズを横目で見て、頷く。
「そう。じゃあ音楽準備室で話ましょうか」
 先生は楽譜を閉じて、椅子から立ち上がった。僕らは音楽室の隅にある扉から、隣の音楽準備室に入った。
「で? 話ってなぁに? 灰坂さんの事?」
 音楽準備室に入るや否や、先生が言った言葉に僕は息を呑んだ。先生は僕の反応を気にする素振りも無く、パイプ椅子を二つ向かい合わせに並べて座った。
「何、突っ立ってるの。座りなさいよ。ちょっと狭いけど」
「は……はい」
 僕と先生は膝がぶつかりそうな距離で向かい合っている。先生はふうっと息を吐いた。
「で、灰坂さんの事なんでしょ?」
 もう一度先生は確認してくる。その口ぶりが、もう僕が一度頷くだけで全てを悟ってしまうような雰囲気を醸していた。
「先生……知ってたんですか?」
「ん? 何を?」
「……僕と灰坂のボイトレの事です」
 僕がそう言うと、先生は手を挙げて驚いた。
「まあ! あなた達、ボイトレなんてやってたの?」
「え? 先生どういう事ですか?」
「どういう事って?」
「だって灰坂の事って」
「それくらいは、あなた達見てたらわかるわよ!」
 仮にも私は先生ですよ? と言って、先生は事のあらましを全て教えてくれた。
 どうやら先生はテストの灰坂を見ていて、歌いたくない訳では無い事を悟っていたらしい。でもこっちに来た事情も事情だし、その理由までは分からなかったから、とりあえず様子を見ようとパート分けは前の学校と更には小学校にまで電話して確認し、ソプラノに決めたとの事だった。依然として歌いはしなかったけれど、パート練習にも話の輪にも居る事は居るし、歌いだそうとする節も時々だけど見られた。このままいけば近いうちに歌いだしそうだと感じていた矢先に、例の男子と女子の大喧嘩が勃発。これはもう、自主的を望んでいる場合じゃなく、先生が動くしか無いかなと思ったらしい。でも、そうした矢先に僕があの喧嘩が起きて以降、やけに灰坂の事を気にかけているのに気付いて、それなら先生よりも生徒の方がまだ良いだろう、と任せてみる事にしたらしい。
 だってあなたずっと灰坂さんの事チラチラチラチラ見てるんだもの。と先生は笑った。
 僕は体中からジワリと汗が出て来てくる。
「でも、先生はどうして僕に任せられたんですか?」
「それは教師の勘ってやつね! 結構当たるのよ私の勘は!」
 先生は「それにこういうのは大抵、変に大人が介入するより子供同士の方が解決しやすかったりするものなのよ」ともっともらしく付け加えた。
「何だか無責任だな……」
 僕の思わずついて出た言葉に、先生は笑う。
「まさか投げっぱなしだと思ってる? 違うわよ。ちゃんと夏休みに入って最初の合唱で何も変わってなければ私が介入するつもりだったから。だからそれなりの準備はしてたわ。朝丘君を信用してないわけじゃないけど、一応油断は禁物だしね。保険ってやつね。まぁ取り越し苦労だったみたいだけど!」
 笑いながら話す先生を見て、僕は思わず納得してしまった。最初の一言の理由がようやくわかった。なんだかんだ言って、結局全て先生の思い通りに事は運んでいるって訳だ。
 僕は先生に尊敬どころか恐怖を覚えた。
「それで? あなた達は何をするつもりなの?」
「あ、はい。それなんですけど実は……」
 僕は作戦の全貌を事細かに説明した。ついでに先生がしつこく聞いてくるので、僕がやったボイトレのやり方も全て伝えた————。
「いいわねぇ! それ先生も一枚噛ませてもらうわ!」
「ありがとうございます」
 話しているうちに何となく分かっていたけれど、先生は二つ返事でオーケーを出してくれた。これで作戦を決行出来る。後はボイトレの最終チェックを入念に行って当日を迎えるだけだ。
「それじゃ、次の練習の時に。お願いします」
 僕は一礼して椅子を片付ける。座ったままの先生は何かを考えているのか、黙って僕を見ていたけれど、気にせずそのまま音楽準備室の扉を開けた。
「朝丘君。あなた先生に向いてるわ」
 背中にかけられた言葉に僕は振り返り、笑った。
「変な冗談はよしてくださいよ」
 先生は微笑み返すだけだった。僕はもう一度、一礼して部屋を出た。
 ピアノに肘をついて先生を待っているカズと目が合い、僕は去り際に言葉を投げる。
「カズ、頑張れ!」
 指揮棒を振って答えるカズに手を振って音楽室を後にする。
 ————大丈夫、きっと上手くいく。
 僕は今までの特訓を思い出しながら何度も心の中で呟いた。
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