私と彼の溺愛練習帳
 どれくらい歩き回っただろうか。
 雪音は観念してマンションに帰った。
 時計は九時を過ぎていた。仕事を終えたのは七時半で十五分もあれば帰れる距離なのに。

 閃理はまだ帰っていなかった。
 久しぶりに自分で夕食を作った。味気なくて、寂しい味がした。

 あの人は誰なんだろう。
 雪音はタクシーから降りる美女を思い出す。
 電話の人なら外国の人だ。フランス人だろう。住んでいるのは日本なのか、フランスなのか。

 キスをしていたようだが、挨拶なのか、恋人に対してのものなのか。
 フランスに住む恋人なら遠距離恋愛だろうか。
 そして、自分は日本での恋人ということなのだろうか。
 だけど、それなら体を求めるのではなかろうか。複数の恋人を作る人の目的はきっとそれだろう。

 どれだけ考えても答えはない。
 仕事関係の人かもしれないし、ただの友人かもしれない。彼はフランスで幼少期を過ごしたのだから、きっと友達だ。
 雪音は無理矢理自分を納得させた。

 11時を過ぎて閃理が帰ってくると、慌てて玄関へ迎えに行った。
 良かった。帰ってきた。約束通り、帰って来た! 置いて行かれなかった!

「おかえり!」
 喜んで声をかける。閃理は驚き、それから疲れた顔に微笑を浮かべた。
「ただいま」
 ぎゅっと雪音を抱きしめる。

「……お帰りって言ってもらえるのって、こんなにうれしいものなんだね」
 閃理はしばらくそのまま、動かなかった。
 だから雪音は、そっと彼の頭を撫でた。
 やわらかい髪の感触に、心がじんわり温かくなった。



 あの女性が誰なのか、雪音は聞けなかった。
 聞いたら、彼は教えてくれるだろう。
 生い立ちも、嫌そうだったのに教えてくれた。
 言わないということは言う必要がないということだ。

 雪音は自分にそう言い聞かせた。
 なのに、閃理に悟られた。
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