私と彼の溺愛練習帳
 それなのに、家を出てしまった。彼にあてて手紙は書いた。だから黙って出て行ったわけじゃない。自分にそう言い訳をしていたが、結局は彼を置いて行ったのだ。

 いつも、母に置いて行かれたことを気にしていた。
 いつも、彼に置いて行かれる危惧ばかりしていた。

「帰るって言ってくれたのに」
 それを信じ切れなかった。
 もっと待つべきだった。たとえ帰って来なくても待つべきだった。信じるというのは、きっとそういうことだ。

 婚約者のことも、きちんと聞くべきだった。彼からの言葉をなにひとつ聞くことなく、自分は家を出てしまった。
 置いていかれるつらさはわかっていたのに。
 彼もまた置いていかれた人なのだ。一方的に離れるなんてこと、してはいけなかった。

「行かなくちゃ」
 思わずつぶやいた。
 母が首をかしげる。

 彼はどこにいるのだろう。部屋に帰っているだろうか。別の場所にいるのだろうか。
 それでも。
 雪音は大きく深呼吸した。
 彼が勇気をくれた。だから母を見つけることができた。同じように彼を探して、見つけよう。

「ごめん、用事を思い出した」
「わかったわ。大事な用事なのね」
 母は微笑した。

「行ってらっしゃい」
 言われて、母の手を取った。細くなった手をぎゅっと握るのは怖くて、そっと包んだ。行ってらっしゃい。それがあるから、おかえりなさいもある。

「行って来る。きちんと話して帰ってくる」
 温かなその手を離し、雪音は母に背を向けた。

 ドアがノックされたのは、そのときだった。
 雪音がドアを開けると、そこには信じられない人がいた。
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