私と彼の溺愛練習帳
 氷は割られたのだ、と閃理は思った。
 粗野で不躾な人によって乱暴に踏み抜かれた。
 人には聞こえない悲鳴を上げ、破片となって散った。

 閃理のマンションに連れて来られた雪音は、脱力したようにソファに座っている。
 ギリギリだ、と思った。
 おそらくはギリギリで間に合った。あのまま放っておいたら彼女は遠くへ行ってしまったに違いない。
 だが、おそらくまだ境界線上にいる。

 閃理は鍋に純ココアを入れ、IHコンロにかけた。砂糖と牛乳で練るとカカオの香りが広がった。さらに少しずつ牛乳を入れ、沸騰直前で止めてカップに注ぐ。
 ココアは閃理が好きな飲み物だ。コーヒーよりも濃厚で優しく甘い。

「熱いから気を付けて」
 差し出すと、彼女はおずおずと手を伸ばした。
 受け取ったカップを両手で包み、それから熱そうにしてテーブルに置いた。

「子供のころ、冬になるとお母さんがよく作ってくれた」
「ココア、好き?」
 たずねると、雪音は黙って頷いた。

「お母さんは今、どちらに?」
 よくない答えが返ってくるのはわかっていた。それでも聞かねばならなかった。彼女の今を知るために。

「……行方がわからないの。叔母さんは、もう死んだんだ、って」
 雪音の声には力がなかった。
「叔母さんに死亡宣告されたの。裁判所に申し立てをしたって」
 失踪宣告のことか、とすぐに思い至った。

 普通失踪は失踪者の行方が七年たってもわからない場合に申し立てをすると、法律上は死亡とみなすことができる。戦争や遭難などの危難にみまわれたとされる特別失踪は一年で申し立てができる。

 本来、生きていく人のための制度だ、と閃理は思う。残された人が前を向くための。
 だが今、雪音はひどく傷付き、消えてしまいそうだ。触れると溶ける雪の結晶のように。

「家をとられたっていうのは?」
「家と土地の名義が、知らないうちに母から叔母に変わっていたの」
 閃理は眉をひそめた。それが事実なら犯罪ではないのか。通常は雪音が相続するはずだ。
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