私と彼の溺愛練習帳
「あなたが好きだから」
 閃理は迷いなく答える。ドライヤーを棚に戻し、彼は雪音を後ろから抱きしめた。
「なんでそんなに好きって言うの?」
「言っちゃダメなの?」
「だって……」

「僕の亡くなった母、はっきり気持ちを伝えてって父によく言っていたよ。だけど父はなにも言わない人だった。これで答えになる?」
 雪音はうつむいた。言わせてはいけないことを言わせてしまった気がした。

「だから、あなたも気持ちを言ってほしいな」
 雪音は自分を抱きしめる手をぎゅっと握った。

 好き。
 言ってしまって、いいのだろうか。
 言ってしまうと、なにかが壊れる気がして怖かった。
 きっと、見えないなにかは、雪音が幸せになるのをずっと待っている。その頂点から突き落とすために。

 結局言えなくて、雪音はねだるように唇を寄せた。
 彼は雪音を安心させるように深く口づけ、慈しむように撫でる。しなやかな腕が彼女をしっかりと抱き留め、指がやわく首筋をくすぐる。

 体の奥がぎゅっとした。
 思考がぐるぐる回る。
 閃理はいつも地上を優しく照らす月のようだ。
 月は満ちた翌日にはもう欠け始める。

 たとえすぐに(さく)を迎えるのだとしても、今はまだそばにいる。
 彼がいてくれるなら。
 彼がいてくれるうちに。
 唇が離れると、雪音は彼の胸に頭をもたせかけた。

「あなたに甘えても、いい?」
「いいよ」
 閃理が頬を寄せ、雪音の肩を抱く。

「私、お母さん探してみる」
 閃理の手に力がこもった。
「わかった。一緒に探そう」
 閃理の声は心強くて、雪音はそっと目を伏せた。
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