らしくない放課後
恋愛対象(おんな)としては見れないよ」と、ボーイズトークが廊下にこだました。

そいつと私の関係は、確かに恋愛未満(ともだち)だった。

隔てられた扉を前に、私は雷に打たれたような衝撃を覚え、ゆっくりとその場を立ち去った。





ブラスバンドの音が遠くから聴こえてくる。

午後4時53分、学校の中の名前のない場所。

非常階段の下としか表しようのない場所で、ただトランペットのケースを、膝の上に抱えるだけの私がいた。

湿気を含んだ初夏の風が、校舎の隙間を通り過ぎる。

時折ケースの中から楽器を取り出しては、言い訳のようにトリガーに指をかけ、バルブをピストンする。

そしてまたケースに戻すを繰り返す。

そんなことをしていると反って空しくなるけれど、だからと言って何もしなければ、何かに心が押しつぶされそうだった。

罪悪感にも似た、名前のない何かに。


「何やってんだ、そんなとこで」


たったいまこの瞬間、世界一されたくない質問を、世界一されたくないヤツにされたのだった。

いつの間にか斜め下に固定されていた視線を上げると、西陽を受けた校舎がつくる、影の一歩手前の日向のところに、野球部の練習着を着たそいつがいた。

陽影にいる私からは、帽子の陰に隠れたそいつの表情はうかがえなかったけれど、どんな顔をしていようときっと白々しく映ったに違いない。

私は膝上のトランペットに視線を落とし、聴こえようと聴こえまいとどっちでもいいような声で言う。


「別に…なんでもないよ」


何をしているかなんて、私が一番わかんないんだから。

ほんと、何やってんだろう、私…。


「何でもないか…、模範的な回答だな」


なんて意味の分からないことを言って、そいつはためらいもなく歩み寄り、何の断りもなく私の右に腰かけた。

まるでそれが当たり前であるかように。

そいつの尻がコンクリートに置かれた瞬間、ほのかに匂う汗と土の臭いがやけに鬱陶しかった。


「携帯見たか? お前が部活に出てないって、俺のところにまでラインが飛んで来たぞ」

「知ってる…、見てないけど…」

「サボるなんてらしくないじゃん、なんかあった?」

「だからなにもないって、そっちこそ練習中でしょ? いいの? こんなとこにいて」


ただサボってる私と、多分私を探しに部活を抜けて来たであろうこいつ。

分が悪いとは知りつつ、そう言うしかなかった。

私の不在を、わざわざこいつに知らせたであろう友人の、見たこともない冷淡な顔が頭に浮かんだ。

我ながら身勝手な想像だったけど。


「いいわけないだろ、こうしてる間にもどれだけチームに迷惑が掛かってると思ってんだ、大会だって近いのに…」

「……」

「理由はどうあれ、部活休むなら休むって連絡くらいしとけ、みんな心配するだろ」

「……ごめんなさい」


力なくうなだれる私の、申し訳程度の、だけど精一杯の謝罪だった。

今はこいつとまともに話せそうにない。

とにかく時間が欲しかった。

ついさっき生まれたばかりの、自分の感情と向き合うだけの時間が。

いつものように気丈な私に戻れる時間が…。


「…ほんとになんかあったか? 具合悪いとか、…今朝は普通だったろ?」

「関係ないよ、あんたには…」


心配そうに私の顔をのぞき込もうとするそいつの視線から、逃れるように顔をそむけた。

痛いお腹を、痛ませた張本人である素人に探られるのは、誰だって御免だ。

私は根を張りかけていた腰をコンクリートから引っ張り上げ、余った勢いで今更のように取り繕って言った。


「わかった、今から出るよ部活、吹部のみんなにはちゃんと謝るから、あんたも早く戻りなよ」


どうしたわけだろう?

言った瞬間、"もうこいつとはこれっきりだ"…と、そう感じた。

昨日や今日と、何かが変わるわけじゃない。

朝通学路で会えば、いつも通りおはようと言うだろうし、校内で会えば、いつも通り冗談交じりに会話する。

放課後は、部活のない日は一緒に遊びに行ったりするだろうし、宿題を写させてあげたり、漫画の貸し借りだってする。

いつも通り。

今まで通りの日常。

だけど…。

だけどそれっきりだ。

私とこいつの関係は、友達以上ではあり続けても、それより先へ行くことはないと、自覚しながらこれからの日々を過ごすんだ。

いまも一枚隔てている、廊下と教室を(わか)つ扉を開く勇気が、私には無かったのだから。


「……」


ふと、涙がこぼれた。

これからの互いの在り方(かんけい)が、枯れて朽ちるのを待つだけの開ききってしまった花のように思えて仕方がなかった。

それは私にとって何よりも恐ろしい未来予想図だった。

私は泣いていることを決して悟られないように、背後にいるそいつを顧みることもなく無言のまま駆け出した。

しかし、駆け出そうとして失敗した。

不意に右手首をつかまれたからだ。

右手に提げたトランペットのケースが、慣性のままに動揺する。


「待った、やっぱりお前、なんか無理してねえか?」

「……っ」


なんで。

なんで私はこんなに参ってるのに。

なんでこいつはこうも平気でいられるのだろう?

こんなのは不公平だ。

ひどい理不尽だ。


「……てよ」

「え?」

「……放してよ…、関係ないって言ったじゃん……、なんでほっといてくれないの……?」

「!……」


事ここに至って、初めて私は涙をぬぐうことができた。

もはや観念するしかなかった。

ついさっきまでの私の決意とは裏腹に、涙があふれて止まらない。

頭も心も、にじんだ視界のようにぐちゃぐちゃだった。


私はこいつが好きだ。


声も、顔も、運動が得意なところも、勉強が苦手なところも、優しいところも、何も分かってないくせに妙に察しがいいところも、何事も真面目で真剣になっちゃうところも、距離が近いところも、私がどこに居ても一番に見つけてくれるところも、全部…。


全部、大好きだ。

大好きだったんだ。


「ごめん…っ」

「…なんで、謝るんだよ、何に対してゴメンなんだよ…?」


そっと右手が解放されたのを感じた。

学校の中の、名前の無い場所。

非常階段の下としか表しようの無い場所で、遠くに聴こえるブラスバンドの練習曲を背景(バック)に、不規則なリズムの嗚咽が所在無く彷徨っていた。

すっと息を吐く音がした。


「……わかった」

「……?」

「今日はもう帰ろう」

「え…っ」


言うが早いか、そいつは携帯を取り出し何やら操作したあと、湿った私の左手を掴んで歩き出した。

つられて私も歩き出す。

校舎の外壁に沿ってずんずんと、風を切ってすすむそいつの後頭部を呆けたように見つめたあと、私は我に返って問い質す。


「……何処に行くの…?」

「お前ん家」

「ちょっ…、待ってよ…!」

「吹部には体調不良って言っといたから」


すれ違う生徒の好奇の視線も構わず、そいつは私はを引っ張っていく。

大きな背中すり抜ける、体温を乗せた空気の流れ。

顔に塗った日焼け止めと涙がまじり、そして乾いていく。

恥ずかしい私が容赦なく白日に晒されていく。

私は俯いて、ただ繋がれた手のごつごつした硬い感触だけを、意識するように努めなくてはならなかったのだった。





午後5時46分。

日も沈み始める町中で、1台の自転車に跨った2人の男女がゆっくりと家路を滑っていた。


「道交法違反だよ、ふたり乗りは…」

「ヘルメットしてるからセーフ」


悪怯れもせずそいつは言い切った。


「背中、汗臭いんだけど…」

「我慢しろ」

「……」


言われるままに、私はそいつの腰に手を回したまま大人しく体重を預ける。

通り過ぎるオレンジ色の家並み。

時折訪れる坂道。

後ろに乗せた私をものともせずに、そいつはずんずんと自転車を漕いでいく。


「……ねえ、あんたはさ…、気にならないの…?」

「何が?」

「…こんな風に二人で一緒にいると、周りからどう思われるか……って」

「どう思われるかって……、どう思われるんだよ?」


それはもちろん、そういう(・・・・)関係なのか、だろう。

他に何があるというのか。

一瞬やきもきしたけれど、この質問は確かに抽象的過ぎたかもしれないと思い直す。

いつにないこいつの慧眼ぶりを目の当たりにしたせいだろう。

知らずこいつへの期待値が高まっていたのかもしれない。

もっとも。

こいつはこいつで、質問の意図を正確に了解しつつとぼけているという可能性もある。

だから私はわざとらしく呆れたように、はあっとため息をついた。

すると前方から抗議の声が上がる。


「あのなぁ……、前から思ってたんだけど、お前そういうのよくないぞ?」

「…そういうのって?」

「なんつーか…、納得してるようで本当は納得してないって感じつーか…、口では何も言わないけど、実は言いたいことがいっぱいあるんですよねーみたいな感じ」

「……!」


思いがけない死角からの一撃に、私は内心で驚愕した。

意識したことは無かったけれど、言われてみれば心当たりが山ほどある。

いつからだろう?

"何でもない"が、半ば口癖になったのは。

"ごめんなさい"が、自分を納得させるための、その場しのぎの決まり文句になったのは。


「中学の時からそういう傾向はあったけどさ、高校入ってからますます顕著になってる気がすんだよな」

「……」

「別に何もかも包み隠さず打ち明けるべきとは思わねえけど、話せる範囲のことは話してくれねーと、信用されてないんじゃねえかって思っちまうだろ」

「……そっか、そんな風に思ってたんだ……」


そんな風に、こいつは私を想ってくれていたんだ。


「まあ、俺は基本的に本音と建前を区別すんのが下手だからさ、妙な駆け引きなんてしようもんなら、馬鹿を見るのはそっちだぞと言いたいわけよ」

「……ふふ」


なぜか自信に満ちたその言い草に、私の顔は思わずほころんでしまった。


「うん、そうだったね…、思い出した…」

「……っと、ほら着いたぞ」


気づくと二人を乗せた自転車が、私の家の前に停まっていた。

私はありがとうと言って、ある一つの決意を胸に秘めつつ自転車の荷台を降りた。


「じゃあ俺は学校に戻るから、今日はもう寝ろよ」

「……」

「……じゃ、また明日…」

「ねぇ」


別れを言って、再び自転車を漕ぎ出そうとする背中に向かって、私は切り出す。

果たして。

振り向いたそいつは、どんな顔をしていただろう。

驚いたには違いなかったはずだけど、いずれにしても目を閉じて息を止めていた私には、細かなニュアンスまでは判らなかった。


それはとてもぎこちない、乾いた唇を重ね合うだけの無音のキスだった。


「……!」

「……これが私の本音だよ、馬鹿…」


短い無音のあと、案の定目を丸くしていたそいつに告げて、私は家に入った。

ただいまも言わず自室にむかい、制服のままベッドの上に仰向けになる。

天井の一点をぼうっと見つめ、鳴り止まない鼓動の音と、耳朶の熱に浸ること数分。

今日という日を過去にするため、私は浴室を目指して部屋を後にした。


明日からは、新しい自分らしさを獲得するための日々が始まる。

手始めに吹奏楽部の友人に同伴してもらって、口紅とやらを買いに行こう。

そんなことを思いながら、私はいつもより少し多く、シャワーの栓を開いた。
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