あなたの子ですよ~王太子に捨てられた聖女は、彼の子を産んだ~
 音もなく着地したレナートは、ぐるりと大きく周囲を見回した。
 まだ騎士の姿も魔術師の姿も見えない。自警団と思われる男たちが、宿の客やら周辺にいた者たちに逃げ道を誘導しているくらいである。
 短く息を吐いて、気持ちを整える。彼はすっと空に向かって右手を真っすぐに伸ばした。手のひらを天に向ける。
 心の中で雨雲を呼び、命じる。
 ――この地に、雨を降らせよ!
 魔術師であっても、近くにある雨雲を呼んだり、雨雲を散らしたりするくらいならできる。この雨雲を操れる範囲というのは、魔力の強さに比例する。
 さらにもっと大きく天候を操るのは――例えば嵐を呼ぶとか、晴れ間に雪雲を呼び寄せるとかは、魔術師では不可能。それができるのが、聖女とは聞いているのだが。
 それでも、この程度の炎であれば、レナートの力で十分だろう。
 ポツポツと雨粒が落ち始めた。それがザァザァと音を立てて火の勢いを弱めるまでにはそう時間はかからなかった。
 額に滲む汗によって張りつく前髪を払うと、レナートはその場を去る。
 あとは、これからやってくるだろう騎士や魔術師がなんとかしてくれるはずだ。この場にとどまっていると、彼らに見つかって面倒なことに巻き込まれるだけ。できるだけ面倒ごととかかわりたくないレナートは、そそくさと立ち去ったほうが得策だろう。
 何事もなかったかのように、宿に足を向けた。
 レナートが呼び寄せた雨雲は、燃え盛る炎の上にだけ集まり、その場所だけ雨を降らせていた。誰が見ても魔法の力によるものとわかる。
 だから、さっさとこの場を去りたかった。
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