Stayhere! 上司は××××で御曹司
それは、「魔王の白」と呼ばれている。
「うっ…シロ、来たっ…」
 月曜日の朝。出社した北条ななみは、机の上にひらりと置かれた原稿を見て、思わず呟いた。その原稿は、ななみが先週の金曜日、終業ギリギリまでねばって書いた新曲レビューだった。
 誌面に載せてもらえるかどうか、編集長にお伺いを立てるべく提出していた。
「あれ、もしかしてシロ、来ちゃった?」
 原稿をのぞき見した隣の席の青葉こずえが言った。
「はい…思いっきりシロでした」
「あー、私もそういう時期あった。誰でもたどる道だよ、ななちゃん」
 はい、とうなだれながらななみは、仕方なく席についた。
「魔王の白」というのは、まったく赤字の入っていない原稿のことを言う。編集長は、部下の書いた原稿を誌面に載せるか、ボツにするか、の権限を持っている。赤字が入って、こんな風に書き直し、と添削が入っている原稿は、まだ誌面に載せられる可能性がある。
 しかし、真っ白の、全く添削無しは、まごうことなきボツである。箸にも棒にもひっかからなかったから、書き直し。そういうことだ。容赦ない仕打ちに誰も逆らえない。なので、編集長のあだ名が「魔王」でも、誰も異を唱えるものはいない。
 二十三歳のななみは、この出版社に来るようになって半年経つ。大学四年の夏、就職活動で、ここロックアウト出版の面接に訪れた。ななみは、ロックアウト社が発行している「rock:of」という音楽雑誌が大好きで、毎月購入していた。最初は、好きなミュージシャンが載っているから買っていたのだが、毎月読み込んでいる内に、巻頭ページから最後のページまで、くまなく読むようになった。
 単純に、どの記事も面白かったのだ。聴いたことのないバンドでも、その紹介記事からは、熱い音の塊が紙面を通してこちらに向かってくるような気がした。
 インタビューも面白かった。普通の音楽雑誌では、さらりと流されそうなところでも、「rock:of」は食らいついていく。ちっともしゃべらないことで有名なミュージシャンも、インタビュアーのたくみな、隙をついた質問を食らい、いつの間にか丸裸にされていた。
 最初は音楽の情報が知りたかっただけだったのに、ななみは、「rock:of」から繰りだされる世界にのめりこんでいった。
 こんな記事書いてみたい、そう思うのに時間はかからなかった。ロックアウト社が大卒の新入社員を募集しているのを見て、「これは私を呼んでるんだ」と、ぐっと熱いものがこみあげた。
 なんとかこぎつけた面接の前の日は、「人生が変わるかもしれない」と思いつめ、よく眠れなかった。面接の時、ななみは何かにとりつかれたように、いかに自分が「rock:of」が好きかを語った。「好き」だけじゃ採用されない、わかっていても止められなかった。
 目の前に座ったロックアウト社の社長を始めとしたお偉がたの面々が困ったような顔をして、ななみを見たので、ななみは「終わった…」と思った。
 きっと不採用に違いない、と実家の自分の部屋のベッドで寝込んでいたら、スマホに着信があった。相手はロックアウト社の人事担当からだった。ななみは飛び起きて電話に出た。
 人事担当者は言った。
「あのね。北条さんは、不採用なんだけど、熱意は伝わったから。よかったらバイトとして来ませんか。まずは、雑用とかしてもらって、使えそうだったら正規雇用も考えるから」
「行きます!」
 前のめりになって返事をした。迷いはなかった。
 ななみは、福岡出身で、上京を考えると、住むところから考えなくてはいけない。親は、当然のように心配した。正社員採用なら、それなりの給与があるが、バイト扱いだと時給も高くない。家賃の高い東京で一人暮らしが厳しいのは目に見えている。
 二つ年上の従妹のかよちゃんが、東京で一人暮らしをしている。二人で部屋を借りて、家賃を折半すれば、なんとかなるんじゃないか。そう説得した。従妹のかよちゃんは、家賃が少しでも浮くなら、とななみの上京を喜んでくれた。もともと仲がよかったのが、功を奏した。
 親もそれなら、と上京を許可してくれた。幸い、ななみには上京を止めるような彼氏もいなかった。
 大好きな「rock:of」に関われるんだ、と思うと、それだけで胸が熱くなった。
 そうして、出社して半年が経ち、今、ななみの目の前にはボツの原稿がある。
 そう簡単に記事を書かせてもらえるとは、確かにななみも思っていなかった。最初の三か月は徹底して雑用をやった。雑用は腐るほどあった。毎日忙しく、一つ覚えた、と思ったら、また次の壁がやってくる、そんな日々だった。
 疲労困憊な毎日だったが、正社員のライター達は、校了前は、超のつく忙しさだったので、自分はまだまだ楽な方だ、と思った。
 ライターさん達に混ぜてもらって、ありがたいことに夏フェスも堪能した。充実した夏を越した9月になって、編集長から呼ばれた。
「雑用ばっかりだと、つまらないだろう。新曲レビューを書くチャンスをやる。俺を感動させなかったら、即ボツだ。容赦なくボツ。簡単に誌面には載せない。どうだ、それでもやってみるか」
 にやり、と編集長は、笑った。意地の悪い笑みだなあ、とななみは心の中で呟き、そしてやります、と言った。
 編集長は三十二歳だ。長身で、すらりとしている。大手事務所に所属している俳優みたいな見た目だ。目が切れ長で、まつ毛も長い。床屋に行く暇なんてなさそうなのに、ヘアースタイルもさっぱりしている。編集長と初めて逢って、一目ぼれした女性ミュージシャンもいる、と聞いたことがある。
 しかし、その後に噂話は、こう続くのだ。
「あれでしゃべらなかったらね…」と。
 それくらい、編集長の言動は厳しかった。歯に衣着せぬ、とは、編集長のためにあるような言葉だ。パワハラがまかり通るようになって、あれでもだいぶ優しくなったんだよ、と隣の席のこずえは言う。
 ボツ原稿を見つめながら、ななみはこずえに訊いた。
「こずえさん、さっきシロが続いた事もあったなって、言ってましたよね。どうやって乗り越えたんですか?」
 うーん、とこずえは長い髪の毛をさらっとかきあげた。仕草が色っぽい。こずえはロックアウト社の中でも1,2を争う美人記者だ。
「そうねえ。なんていうか、自分の想いとか考えとかが、すぽっと文章にはまった、って感じることがあって、それからはボツが減ったかな」
「すぽっと」
 抽象的で、ななみにはピンとこない。
「っていうか、やっぱ、書いては削り、書き直しては削り…って、いろいろ試行錯誤も、してたよ。ななちゃんもそういうことをする時期なんじゃない」
「はあ…」
 言われていることはよくわかる。実際、ななみも、書いては消し、書いては書き直しと、やってみてはいるのだ。しかし、気がつけばテーマからズレていたり、何を言いたいのかわからなくなったり。先輩たちの素晴らしい、お手本になる記事がたくさんあるのに、自分流に書こうとすると、てんでうまくいかない。
 自分の向かうゴールが分からない。それが、ななみの今の仕事の悩みだ。
「うーん…」
 うなりながら、PCを立ち上げていると、ぱこんと音を立てて頭をはたかれた。
 ひゃっ?と振り返ると、そこには。
「うなっていないで、手え動かせ」
「へ、編集長!」
 件の手厳しい編集長、葉山宗吾が、ななみの真後ろに立っていた。手に、丸めた薄い雑誌を持っている。それでななみの頭をはたいたらしかった。
「おはようございます。早いですね。会議ですか?」
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