すみっこ屋敷の魔法使い
 それからモアは、掃除や料理の仕方を教わった。色んな、「普通の女の子」がやっていることをイリスは教えてくれた。

 夜がやってくる。

 用意してもらったネグリジェに着替えると、モアはそっとイリスの部屋に向かった。とんとん、と扉を叩いてみると、「どうぞ」と優しい声が聞こえてくる。


「どうしたの?」

「……。夜は、一緒に寝るのではないですか?」

「え、俺と?」

「はい。私はそのように認識しています」


 イリスは困ったような表情を浮かべていた。

 ――私は、何か間違えているのだろうか。

 モアは不安になって、イリスの顔を窺い見る。


「えーと。俺はまだ眠る時間じゃないんだ。魔導書を読んでいて……。一緒に読む?」

「……はい。それでは、ご一緒させていただきます」


 イリスに迷惑をかけているのではないか。モアは不安になったが、イリスは優しく笑いかけてくれた。

 イリスの部屋は、ふわ、と彼の香りがした。なんだかドキッとしてしまって、モアは落ち着かないようにきょろきょろとしてしまう。

 ベッドと、机。モアの部屋と似たようなコーディネートだ。

 イリスは机の上に広げていた魔導書を持って、ベッドに座る。そして、とんとんとベッドを叩いた。その音に導かれるようにして、モアは彼の隣に座る。


「モアは、どこまで魔法のことを知っている?」

「私が学んでいるのは、悪魔を使役する魔法です。けれど、私の身体はまだ悪魔の魔法を使うには至らなくて――……」

「そう。魔法には色んな種類があってね。怖い魔法だけじゃない」


 イリスは魔導書をパラパラとめくって、とあるページを見せてくれた。モアには少し難しくて、中身はよくわからない。


「この魔法は、花を咲かせる魔法だ。まだ芽吹いていない花、枯れてしまった花……そういった花でも、この魔法なら咲かせることができるんだよ」

「そんな魔法が……」


 ――魔法は、エディから渡された魔導書を使って勉強していた。

 すべて、悪魔を使役する魔法だ。いつか起きる戦争のため、おまえは強くなりなさい。そうすれば、この世界は平和になるから――そう言って、エディはモアに「悪魔魔法」をたたき込む。

 それが、モアにとっての魔法。魔法は、戦いのための手段だった。

 だから、イリスが教えてくれる魔法は未知のものだった。花を咲かせる魔法……それから、この屋敷への招待状を書く魔法。彼の使う魔法は優しくて、美しい。


「イリス……貴方は、私の知らないことをたくさん知っているのですね」

「そうでもないさ。俺も、『普通』を学び始めたばかりなんだよ」

「……? そう、なのですか?」

「さあ、そろそろ寝よう。夜更かしはしないほうがいい。身体の調子が狂っちゃうからね」


 イリスはパタンと魔導書を綴じて、机に置く。そんなイリスをモアがぼーっと見つめていれば、イリスは困ったような顔をして尋ねてきた。


「……一緒に、寝る?」

「はい。ご一緒させていただきます」


 イリスはベッドに座って布団をめくり、照れたように「どうぞ」と言ってきた。はにかむような彼の表情に、モアは胸がもぞもぞとするのを感じる。エディに身体を暴かれていたときのような、恐怖や哀しみを感じない。それなのに、なんとなく彼の側に行くのをためらってしまう。

 モアはのそのそと布団に入り、ゆっくりと仰向けに横たわった。ぱふ、と枕に頭を乗せると、ふわっと彼の匂いがする。

 イリスはランプを消して、自らの身体に布団をかけた。そのままモアに背を向けてしまったので、モアは「え」と声をあげてしまう。これから、いつものように触れられるのではないかと思っていたからだ。エディにされていたように。


「ん……どうしたの?」

「いえ……何も、しないのですか?」

「? 何って……何をするの?」

「……。……その、」

「……」


 ふう、とイリスが息を吐いた音が聞こえる。

 イリスは振り返って、頬杖をついてモアを見つめた。ギ、とベッドが軋む。


「モア。俺は、何もしないよ」

「……本当に?」

「うん、しない。きみが哀しむことはしない」

「……かな、しい」


 ――私がされてきたことは、哀しいことなのだろうか。

 それすらも、モアにはわからない。

 エディに、悪魔に抱かれているとき、モアは怖かった。痛かった。苦しかった。けれども――キモチヨカッタ。だから拒絶しなかった。涙がぼろぼろと流れ出ても拒絶しなかった。


「私は……哀しかったのでしょうか」

「俺にはわからない」

「……イリス、」


 ぽろ、と涙がひとしずく。

「気持ちいいんだろう?」「また、イッたのか」「淫らな女だな」。たくさん、この身体をけなされた。この身体はオトコを受け入れているのだと思うしかなかった。実際に感じてしまっていたのだから。

 けれども、イリスに「しないよ」と言われて安堵している自分がいる。

 ――ああ、私は本当に怖かったんだ。

 そう、今更のように理解する。

 わかった瞬間に、ぼろぼろと涙があふれてきた。あのころ、我慢していた涙が決壊したように。


「う、……う、う……」

「モア。今日は、ゆっくり休もう。大丈夫だよ」

「はい、……、……はい、」


 ぽん、と頭を優しくなでられた。

 思わずイリスの胸に縋り付いてしまう。

 なぜか――あんなに恐ろしいと思っていた男の人の身体に温かさを感じる。彼の匂いを吸い込むと肺がいっぱいになって、胸がいっぱいになる。……安心する。


「おやすみ。モア」


 ぽん、ぽん、とゆっくりと、何度も頭を撫でてくれた。

 初めて感じる、心のなかの穏やかさ。

 ふ、と身体からこわばりが抜けたような気がして――すう、と眠気が降りてきた。
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