青春は、数学に染まる。
第五話 2人の関係

進展


早川先生とキスをしたあの日から数週間が経った。



街にはイルミネーションが施され、一気にクリスマスムードが高まっている。同級生も少し浮かれ気味で、クリスマスどうやって過ごすかが今の話題の中心だ。


その間は真面目に補習に取り組み、期末テストに向けてしっかり勉強を積み重ねた。



伊東がいない数学科準備室は、私と早川先生の2人で会うための場所のようになっていた。…とはいえ、数学補習同好会の部室だし。伊東を除けば顧問も部員も1人ずつだから何もおかしいことは無いけども。






放課後になると有紗と別れて数学科準備室へ向かう。
私がかつて帰宅部だったことを忘れるくらい、ここに通うことが当たり前となっていた。

「失礼します~」
「藤原さん、お疲れ様です」

早川先生は席から立ち、笑顔で迎えてくれる。





2週間経ち、早川先生の怪我はすっかり良くなった。

まだ激しい動きや飛び跳ねるようなことはストップがかかっているが、日常生活は問題なく遅れるようになっている。ギブスも取れ、車の運転もできるようになり嬉しそうだった。


私が部屋の扉を閉めると、早川先生は真っ先に抱き締めに来る。そして無言で数秒抱き締めてから離れる。手足が自由になってから先生のルーティンみたいになっていた。

それについて、特に私は何も思っていない。

「それでは、今日の補習をしましょう」
「はい」

私の指定席となった生徒机に腰を掛ける。
机の上には“今日のノルマ”と書かれたプリントが数枚置かれていた。

「今日も難しいですよ。ゆっくり解いていきましょうね」

そう言って早川先生も椅子に座った。


 


実はあれから、早川先生は補習前に少し抱きしめて、終わったら少し雑談をして…それを繰り返すだけだった。

特別恋人らしいことしているわけでもなく、最近は早川先生と自分の関係が良く分からなくなることがある。



とはいえ、付き合おうって言われたわけでも無いし。

これからどうなるのだろう。

「…うーん」
「ん? どうしましたか」

早川先生が『鳥でも分かる!高校数学』を開いて説明してくれている。

「ここまで、何か分からないですかね?」
「あ、いいえ」

思わず声が漏れていた。他の事を考えていたなんて言えない…!
一生懸命に勉強を教えてくれるのは当たり前では無いのだから。


そうやって自分に喝を入れて、しっかりと補習に集中することにした。




「はい、では今日のところはここまでです。よく頑張りました」

早川先生は本を閉じて私の頭をポンポンと叩いた。

「今日も頭が爆発するかと思いました…」
「ふふ、心ここに在らずの藤原さん。頭だけが頑張った感じですかね」
「え?」

補習に集中していたつもりだが、心の奥ではほんの少しだけ、違うことを考えていた。

まさかバレていたとは…。
早川先生には何でも見透かされているようだ。

「何かお悩みですか」
「………いえ。何でもありません」

その返答を聞いて一瞬顔が曇ったが…すぐにいつもの表情に戻った。聞けないでしょ。私と早川先生の関係は何ですか、なんて。



「……そういえば、明日から復帰ですよ」
「…あぁ、伊東先生ですか…」


平和な数学科準備室にまた嵐が戻ってくる。


しかし…早川先生の口から伊東の話題が出てきたことにビックリした。

禁句ワードかと思っていた。


「補習の邪魔をされたら、また部屋を変えましょうね」
「…はい」



あの空き教室、伊東が逃げ込む場所だった。そういえば、伊東と2人きりで話した時の事を早川先生に詳しく話していないことを思い出した。けれどもう時効かな。


早川先生との会話の中で伊東との出来事を思い出すことに対して、また自己嫌悪に陥る。


伊東の事、もう何も思っていないのに。早川先生のことが好きなのに。

どうしても伊東がちらつくのは…早川先生との関係がしっかりとしていないからかもしれない。




「……」

早川先生は小さく溜息をついて、少し下がった眼鏡を元の位置に戻した。

そして少し歩いて電気のスイッチの場所まで行って…電気を消した。

「え?」

急に暗くなり、周りが何も見えなくなる。

「先生?」

不安になり反射的に椅子から立ち上がる。すると立ち上がったと同時に抱き締められた。

「どこに行こうとしたんですか?」
「いや…先生を探しに」
「僕はここにいますよ」

先生の右手は私の頬に移動し、そのまま唇を重ねた。

「…」

暗闇に目が慣れて来た。目の前には真剣な表情をした早川先生が居る。先生はいつの間にか眼鏡を外しており、前髪の七三分けも崩れていた。

「真帆さん」

早川先生は抱き締める腕に力を入れて、再び唇を重ねてくる。
力強く激しく、しかし優しさもあるその行為に、頭が溶けそうだ。

「好きです。苦しいくらい好きです。真帆さんは、伊東先生の方が好きですか?」

え、伊東?
その名前に一瞬驚くが、冷静を装う。

「……どうしてそうなるのですか」

私も早川先生の体に腕を回して強く抱き締めてみる。




…今がチャンス。
思っていたことを口に出してみた。



「違うでしょう。早川先生が曖昧な態度だから気になったんでしょう。伊東は関係無いですよ」
「…曖昧?」
「先生の口から、付き合おうという言葉を聞いていません」
「………えぇ…」



そういえば、確かに…。と先生は小さく呟く。


早川先生は私から離れて目を合わせて、何の迷いもなく口を開いた。


「真帆さん…僕とお付き合いして下さい。ただ、僕は教師で貴女は生徒です。どうしても公言出来なかったり、コソコソ隠れたり…普通の恋愛とは程遠いと思います。それでも良ければ、是非ともお願いします」


先生の真っ直ぐな目に心臓が飛び跳ねた。
 


早川先生ったら、教師と生徒の恋愛が普通はタブーだって事を良く分かっているじゃない。アプローチしてきたの、先生の方なのにね。


「何を今更。先生だって普通の恋愛にならないことを分かった上で、私に思いを伝えて来たのではありませんか? 私だって、そのことを理解した上で先生に思いを伝えています」

目を見開いた早川先生。 何故そんなに驚いた顔をしているのか。

「先生。私はずっと、お付き合いという言葉を待っていました。それを言って欲しくて、そのことばかり考えていた…かもしれません」

今度は私から唇を重ねてみた。先生は優しく微笑んでくれる。

「藤原さんは、僕よりしっかりと考えていらっしゃいますね」
「それは勿論です。普通は先生みたいに付き合う前から触れたりしません。保健室での件とか…何も考えていない行動。“普通は” 有り得ません」
「……そうですね、すみませんでした…」

先生は分かりやすくションボリした。その様子が面白くて笑いが零れる。



「というか先生、七三分けしない方が可愛いですね」

前髪に触れながらもう一度唇を重ねる。

「……可愛いって何ですか」
「そのままの意味ですよ」

長い前髪が目に掛かり、少し幼さが増す。



早川先生は童顔なのかな。



当の本人は小さく頬を膨らませていた。

「少し複雑なのですけど」
「そうですか? 誉め言葉ですけど。…取り敢えず他の人の前では眼鏡を外さず、前髪も崩さないで下さいね」

日頃と違う先生の姿を独り占めしたい。そんな気分だ。

「ふふ、それは大丈夫です」






それから、気付けば補習が終わってから1時間半も経っていた。
早川先生は崩した前髪を再び七三分けに戻している。

「七三分けにすると大人になりますね」
「…どういう意味ですか」

そのままの意味です。
とは言えないから、ふふふと笑って誤魔化す。



「それより、先生に確認したいことがあります」
「なんでしょうか」
「早川先生、まだ私が伊東のこと好きなんじゃないかと思っているのですか?」
「…」

さっき早川先生に言われた言葉。
“伊東先生の方が好きなのですか?”

これは早川先生の心の奥にある不安に違いない。きちんと訂正しておかなければ。


「…この前、藤原さんが伊東先生に一目惚れしていたって言っていたじゃないですか。今は違うと聞きましたけど…それでも心のどこかで、不安な気持ちを抱えていました。というか、すみません。今も不安です」

ほらやっぱり。そうじゃなきゃあのタイミングで出てこないよ。

「別に今は伊東先生のこと何も思っていません。何を言われたか、先生が一番知っているでしょう」
「本当ですか?」

さっき伊東との出来事を思い出していたが、それは言う必要が無い。

「嘘つく必要も無いです。私が早川先生の事を好きなのは本当ですから…」

先生は頷きながら小さく微笑んだ。

「ただ、伊東先生が前みたいに私に構ってきても怒らないで下さいね。それは私の気持ちがどうこうで変えられるものではありませんから」
「うーん…」

少し考えた後、自信ないです。と小さく呟いた。



明日は伊東の謹慎が解けて戻ってくる。
不思議と、少し緊張していた。







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