完璧主義な貴方の恋のお相手は、世話が焼けるくらいがちょうどいいでしょう?
「お嬢様……! 貴方は何度言ったらわかるんですか」

 拳をぎゅっと握り締めながら、こちらを見上げて青筋を立てて震えている男の名前はリチャード・ディークス。コールドウェル家の従僕として働いている。不機嫌そうに顰められた眉に、アイスブルーの冷たい瞳、にっこり微笑んでくれたら誰もが一度は恋に落ちるくらい整った顔立ちをしているのに、今は目を三角にして怒っている。

「リチャード……違うわ。これにはね、深い訳があるのよ」

 シェリー・コールドウェルは、自分の背丈より高い木の幹にしがみつきながらしどろもどろに言い訳をはじめた。エメラルドグリーンの瞳が不安そうに揺れる。これは高所への恐怖ではない、一番見つかりたくない相手に見つかってしまっことへの戸惑いだった。

 一際大きな風が吹き、シェリーの栗色の髪が巻き上げられた。リチャードは息を呑んだ。

「もういいから、そこを絶対に動かないでください。すぐに梯子を……」

 言い終わらないうちに、シェリーは木の上からさっと飛び降りてしまった。新緑の瑞々しい葉がひらひらと少し遅れて舞い落ちた。

 リチャードは一瞬ぽかんとした表情を浮かべ、再びわなわなと拳を握りしめていた。

「じっとしていろと、あれ程……!」

「そんなに怒らないで」

 これ以上リチャードの怒りを倍増させてはいけない。リチャードのぎゅっと固く握りしめた拳にそっと手を重ねると、優しく宥めた。機嫌を伺うように顔を覗き込むと、剣呑な表情が少し和らいだように見えてシェリーはほっと胸を撫で下ろす。

 あれほど禁じられていた木登りをしていたことが父に知られたら、今度は父にこっぴどく叱られてしまう。リチャードの怒りがここで収まれば報告されることもないだろう。

 もっとも、父に叱られるより、目の前のこの男に叱られる方がよっぽど嫌だったのは言うまでもない。

「それで? その訳というものを是非聞かせてもらいましょうか」

 シェリーの髪に絡まった葉を丁寧に取り除きながら、リチャードは深々と、なんとも嫌味たらしく大袈裟に溜息を着くと、相変わらずの冷たい瞳でシェリーを見つめた。

「この木から子猫が降りれなくなっていたの。助けてあげようと思って登ったのに、近くまで行ったら私を置いて逃げげちゃった」

 シェリーの指差した方を見ると、生まれたばかりのような茶色い子猫がこちらを見ていた。心配しているのか、馬鹿にしているのか、それとも助けてくれようとしたことを感謝しているのか、シェリーとリチャードを交互に見ると、小さく鳴いて草陰にサッと素早く隠れてしまった。

「……そういう時は、私を呼んでください」

 屋敷へと戻りながら、若干の怒りを滲ませながらリチャードは言った。

 当然そうするべきだったと理解はしているが、シェリーは彼のことが少し(・・)苦手なのだ。

「……よりにもよって貴方に見つかるなんて、ついてなかったわね」

 シェリーはどうせ聞こえまいと呟いたのだが、地獄耳のリチャードは聞き逃さなかった。

「なんですって?」

 ギロッと鋭い視線を向けられて、シェリーは小さく肩を竦めた。

 リチャードは三年前からコールドウェル家の従僕として働いている。
 シェリーの父であるマックス・コールドウェルは、どこで彼を見つけてきたの大層気に入っているようだった。容姿端麗で、語学も堪能、仕事の覚えも早く、根っからの気配り上手。おまけに屋敷の内外関わらずにすぐに周囲の人と溶け込める才能があった。
 母も姉も、シェリーの友人も彼をもちろん気に入っていたし、その容姿をこぞってほめそやした。ブロンドの髪を丁寧に撫で付け、アイズブルーの瞳でにっこり感じ良く微笑んだら、彼のことを悪く言う人間はいない。

 シェリーからすれば、彼の神経質過ぎるほどの完璧主義な性格も相まって冷酷な印象しか受けなかった。出会った頃は優しく微笑んでくれこともあったはずだが、父からある言い付けをされてからは意地悪そうに口の端を歪めて笑うか、呆れたように、小馬鹿にしたように笑うか、さもなければ怒っているかのどれかだった。

 コールドウェル家は男爵家といえどもあまり裕福ではなく、矜持を保つために数人の使用人を置いているものの、最低限の人数だけで屋敷を支えてもらっている。

 従僕としてだけではなく、従僕以上にどんな仕事もこなしてくれるリチャードは貴重な存在だ。シェリーもそのことは重々に理解していた。

「貴方にもしものことがあったら、私はマックス様に申し訳が立ちません」

 リチャードは独り言のように小さく呟いた。

 シェリーは数ヶ月後に社交界デビューすることが決まっている。

 年の離れた姉のオリビアは、すでに伯爵との結婚が決まっている。両親は姉と同じようにシェリーにも幸せを掴んでほしいと必死だった。

 その為にも、社交界では華々しくデビューする必要がある。シェリーは、姉と比べると華奢で幼く見られがちだが、その容姿は負けず劣らず美しく、まるで妖精のように可憐だと称されたこともある。

 ただ問題なのは、少々お転婆が過ぎるという所だ。舞踏会や晩餐会でこの気性を隠し通せても、乗馬や木登りで出来た生傷はどうしても隠し通すことができなかったりする。



『くれぐれも、顔や目立つところに傷が付かないように頼むぞ』

 リチャードのある言い付けとはまさしくこのことである。社交界デビューがいよいよ近づくと、彼の仕事の中でシェリーの行動によく目を光らせておくことが最重要事項になった。

『まあ、そんなに気負わないでくれ』

 父はリチャードにそう言って、ふくふくと笑った。

『もし良き縁談相手が現れなかったとしても……その時はリチャード、君が娘を貰ってくれないか』

『……お嬢様に傷ひとつ付くことのないように責任を持ってお守り致します。縁談相手探しも、私が微力ながらですが尽力致しますので、どうかご安心を』

 父はこの返答にますます感動していたが、シェリーにはリチャードの言葉の裏が見えていた。こんな世話が焼ける娘は絶対いらない、と。



「お怪我は……ありませんね」

 リチャードはドレスについた汚れを払い落としながら、少し心配そうな顔でシェリーの顔や腕をくまなく見ていた。

「テレサに言って湯を沸かしてもらいましょう。着替えた頃には夕食の準備も整っています。野菜もしっかり食べてくださいね、特にトマト。お肌にいいですから」

 トマトが嫌いなシェリーにそう釘を刺すと、今度は侍女のテレサにテキパキと指示を出している。指示、と言うより子守を頼んでいるようだった。

 年齢も若く、雇われはじめて日が浅いリチャードだが、年上の扱いが舌を巻くほど上手かった。仕事仲間には気難しいと有名なあのテレサも、リチャードに対しては嫌な顔ひとつせずに、にこにこと微笑みながら彼の指示に従っている。

「トマトは嫌いって言ってるのに……」

 誰にでも好かれているリチャードだったが、シェリーはやっぱり彼のことが苦手だった。トマトについて釘を刺されたことだけではない。


「お子さまのお口に合わないでしょうが、レディは好き嫌いしないものです」


 こうしてシェリーのことを子ども扱いするからだ。実年齢より若く見られてしまうことには慣れているがもう十六になる。世間では大人の女性として扱われていい頃合いだ。


 リチャードは小馬鹿にしたように鼻で笑う。手が掛かるから仕方ないと言われたらそうなのだが、自分にだけ少し(・・)意地悪ではないかと疑っていた。父や母、姉の前では猫を被ったように紳士的に振る舞っているのに。

 彼ががくるっと背中を向けた隙に、シェリーはベーっと大きく舌を出す。これはささやかな反抗だ、ほんの少しだけど気が晴れることもある。

 リチャードはピタッと立ち止まると、背中を向けたままで笑いを噛み殺しながらこう言った。

「それからお嬢様、そのような……はしたないお顔は今後は控えてくださいね。それとも、レディらしい笑顔の練習も必要でしょうか?」


(見えていたのね……)

 シェリーは、悔しさに天を仰いだ。

「私がこれまでも気付いていないとでも? 」

 リチャードの言葉に愕然とする。いつから気付いていたのだろうか、絶対に気付かれていないという自信があったのに。
 
 リチャードはそのまま振り返ることもなく、何事もなかったようにすたすたと足早に歩き出した。

 彼は少し(・・)ばかりではない、かなり意地悪だ。
 
 
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