Runaway Love

35

 その晩は、嫌な記憶と罪悪感で眠りにつけず、うつらうつらとし始めたのは、既に深夜だった。
 これからの事を考えると、気が重くなるけれど、あきらめよう。
 無理矢理に目を閉じ、ようやく意識が飛んだと思ったら、目覚ましのアラームで律儀に起きてしまった。
 ぼんやりしながら起き上がり、朝食の支度をしようと冷蔵庫を眺めるが、食欲も湧かない。
 あたしは、ひとまず顔を洗ったり、部屋を片付けたりしてみる。
 お弁当は作る気力も無いし、社食にしよう。
 結局、出勤時間になるまで何も口にできず、ゴミを捨て、そのまま会社へと歩き出した。
 一瞬、先輩の姿が見えてギクリとしたが、よく目を凝らせば、似たような背丈の別人だ。
 締め付けられるような胸を押さえ、深呼吸。
 ――……大丈夫だ。
 ……何もない。
 あたしは、自分に言い聞かせ、再び歩く速度を上げた。

 会社の正面玄関を入り、ロッカールームへ向かう。
 その間も、チラチラと視線を受け続けるが、胸を張って歩いた。
 ――辞めるとはいえ、負けを認めるような真似はしたくない。
 あたしは、ロッカールームに入り、新しいロッカーを探す。
 ――……すぐに、わかった。
 相変わらずの貼り紙。

 ――”恥知らず”。

 その紙をすぐに剥ぎ取ると、バッグと共にロッカーに投げるように入れ、貴重品バッグを持つ。
 今日は、もう、お昼もいらない。
 あたしは、ロッカールームを出ると、足早に五階へ向かった。


「――おはようございます」

 経理部の部屋のドアを開けると、いつものような風景。
「おはようございます、杉崎主任!」
「おう、おはよう」
「――おはようございます」
 三者三様の挨拶を返され、心は無意識に落ち着きを取り戻した。
 ――やっぱり、あたしの居場所はここなんだ。
 そう、再認識した。
「ああ、杉崎、午後から部長が来るから、ちょっと時間開けておけよ」
「――はい」
 大野さんが、あたしをチラリと見やり、そう告げた。
 たぶん、退職の件だろう。
 外山さんは、不安そうにあたしを見るが、何も言わずに手元に視線を移す。
 野口くんは、相変わらず、淡々と仕事を進めていた。

 ――……ごめんなさい、みんな。

 変わらなかった状況に、あたしは、心を決めた。

 そうは言っても、仕事を投げる訳にはいかないので、通常以上に気合いを入れて進める。
「杉崎主任、コレ、どこ見れば良いですか?」
「どれの事?」
 外山さんが、書類を差し出し、あたしは目を通す。
 取引先からの請求書。会社によって書式は様々だが、見るところは、そう違わない。あたしは、そう言いながら彼女に教える。
 自分の仕事と並行して、外山さんへの指導。
 ――今週中で、終われるかしら。
 あたしが持っている仕事は、たぶん、野口くんが受け持つだろう。
 仕事量が増えてしまって申し訳無いけれど、次の人が来るまで頑張ってほしい。
 そんな事を考えながらも、手は進める。
 半分は無意識――習性だ。
 そのくらいには、この仕事に慣れているのだ。
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