Runaway Love
 それから、一時間近くかかり、豚の生姜焼きと野菜炒めという、シンプルなメニューと味噌汁を作り上げた野口くんは、大きく息を吐いた。
 今日も、ご飯を炊くところまではたどり着けなかったので、レトルトのご飯を温める。
 テーブルに並んだ皿を見回すと、あたしは微笑む。
「上手よ、駆くん。ホント、器用なのね。飲み込みも早いし」
 まるで、先生のような感想に、彼は苦笑いで返した。
「茉奈さんの教え方が上手なんです」
「そんな事、無いわよ」
 ストレートに褒められるのは、やはり照れと戸惑いが混じる。
 あたしは、ごまかすように手を合わせた。
「ホラ、もう、食べちゃいましょ。――温かいものは、温かいうちに、よ」
 思わず、母さんのような事を言ってしまい、心の中で苦る。
 けれど、野口くんは、素直にうなづいて、同じように手を合わせたのだった。

 昼食を終え、洗い物を終えると、野口くんはボトルコーヒーをグラスに注いで、あたしに手渡してくれた。
「氷、入れますか?」
「あ、ううん。冷えると悪いし」
「そうですね」
 クーラーの効いた部屋では、かえってマズくなりそうで、首を振って受け取ると、野口くんは、あっさりとうなづいた。
 こういう事を言っても、眉をひそめないのは、やはり、お姉さん達に、幼い頃から刷り込まれているのだろう。
 すると、彼はグラスをテーブルに置くと、本棚を見やる。
「茉奈さん、本、続き読みます?」
「あ、え、ええ」
 あたしは、うなづくと、天井まで届くほどの、彼の本棚を見上げる。
 やっぱり、いつ見ても感心する。
 ずっと、長い間集めていなければ、こんなに揃わないだろうに。
 あたしは、少々痛くなってきた首を押さえながら、彼を振り返る。
「今日は、芦屋先生じゃなくて、他の作家(ひと)も見てみたいかしら」
 野口くんは少し考えると、あたしの手の届かない、上の方に手を伸ばした。
「――じゃあ、最近の人ですけど、トリックがすごいんですよ」
 渡された本は、去年デビューした推理作家のもの。
 話題にもなって、映像化も既に決まっている。
「え、買ってたの⁉」
 あたしは、思わず目を輝かせる。
 基本、単行本は高いので、文庫化を待つしかないのに。
「――オレ、本以外に給料の使い道無いんで」
 苦笑いしながら、野口くんはあたしに手渡した。
 その重みに、笑みが浮かぶ。
「あたしからしたら、贅沢よ、駆くん」
 両手でそっと抱えると、彼を見上げる。
「一人の特権です。――まあ、それ以外に趣味が無いってのも大きいんですけど」
「充分じゃない」
「――茉奈さんなら、わかってくれると思いました」
 野口くんは、うれしそうにうなづくと、テーブルに戻り、本を置く。
 グラスを持ってコーヒーに口をつけるのを、何となく見やるが、やはり、様になっていると感心してしまった。
 けれど、嚥下する時、その喉仏が視界に入り、ドキリと、心臓が鳴った。

 ――……ヤバイ。何だか色気がすごい……。

 暑さのせいで光っている汗も相まって、何だか、CMにでもなりそうな程に絵になっている。
 あたしは、思わず、視線をそらしてしまった。
「茉奈さん?」
 固まっているあたしを、不思議そうに見やると、野口くんは微笑む。
「……何もしませんよ、今は」
「……べ、別にっ……」
 思考がバレたかと思い、あせってしまう。
 だが。

 ――……え?

「”今は”?」
 一瞬、引っかかってしまった言葉を聞き返すと、
「――後で、なんですよね?」
 そう、彼に言質を取られ、あたしは真っ赤になってしまった。
「い、意地悪っ……」
 それだけ辛うじて言い返し、勢いよく座ると本を開く。
 そのまま、二人でしばらくの間、作品に没頭したのだった。
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