Runaway Love
 気まずいまま週は明ける。
 けれど、仕事はしなければならない。
 そう思い、いつものように出社し、新人教育。
 早川は、先週行きそびれた、こちらの取引先を回っている。
 お互いに、少しだけ距離を取るけれど、たぶん、周囲には気づかれてはいないだろう。

「杉崎主任、本社からです」

「あ、ハイ」

 不意に古川主任に声をかけられ、あたしは、急いで電話に出た。
「お電話代わりました、杉崎です」
『お疲れ様です、経理部野口です』
 淡々とした声。いつも通りの彼に、ほんの少し心が凪いだ。
『頼まれていた案件、終わりましたので。いつでもアクセスできます』
「――え」
 あたしは、思わず壁に貼ってあったカレンダーを見やった。
 先週末に、柴田さんが持って来たはず。
 それも、かなり遅い時間に。
『――杉崎主任?』
「え、あ、ありがとう。早すぎてビックリしてたわ」
 すると、野口くんは、ほんの少し気まずそうに言った。
『――大野代理に許可もらって、土曜日休日出勤で、終わらせました』
「え⁉」
 思わず腰を上げてしまう。
 周囲の視線など、お構いなしだ。
「そ、そんなに急がなくても……」
『いえ、こちらの事情です。ちょっと、処理がいろいろ滞ってきていて、外山さんまで残業状態だったので』
 あたしは、頭を抱えてしまった。
「――ごめんなさい、そんな時に、呑気に頼み事なんてして……」
『大丈夫です。――杉崎主任の頼みです、優先順位は一番ですから』
「野口くん」
『まあ、それに、今頑張っておけば、後々楽になるんでしょう?』
「そ、それはそうだろうと思うけど……」
『なら、先行投資です。気にしないでください』
 あたしは、電話の向こうの彼の表情を思い浮かべ、泣きたくなるような衝動に駆られてしまう。

『――じゃあ、何かあれば、また連絡ください』

 そう言って、電話は終えた。
 
 あたしは、すぐにパソコンをスリープ状態から解除し、社内のクラウドにアクセスする。
 経理部のファイルを開けば、”工場事務”とあった。
 それを開くと、以前に見た柴田さんのマニュアルがそのままある。
 あたしは、サッとチェックし、古川主任を見やった。
 すると、すぐに気づかれ、尋ねられる。
「――どうかしましたか、杉崎主任」
「ちょっと良いですか」
 あたしが目配せすると、彼はうなづき、あたしの脇に来る。
 そして、表示しているものを見せると、深くうなづいた。
「――ここまで詳しいのであれば、大丈夫でしょう。あとは、あなたのマニュアルの修正箇所を直せば、そのまま上げて大丈夫かと」
「わかりました。ありがとうございます」
 あたしはうなづき、先週末にチェックしたマニュアルを取り出す。
 ふせんのついた箇所を開き、修正。
 それを何回か繰り返し、一度プリントアウトして、古川主任に確認してもらう。
 そして、OKをもらうと、そのままクラウドに上げ、社内メールで全部署に通知した。
 これなら、各工場や、他の営業所の事務の人達も、自由に確認できる。
 正式なマニュアルではないが、共通項として認識してもらえば、経理部も楽になるはずだ。
 そう思えば、少しは自分の仕事に自信が持てた気がした。


 昼休み、食事を終えて席に戻ると、バッグからスマホを取り出す。
 既に、毎日のチェックはクセになりつつある。

 ――マニュアル、大丈夫でした?

 野口くんから来ていたメッセージには、すぐに、大丈夫、と、返した。
 すると、珍しく着信だ。
「――もしもし?」
『あ、茉奈さん、今、大丈夫ですか?』
 少しだけ弾んだ、野口くんの声。
 あたしは、苦笑いしながらうなづいた。
「ええ、お昼終わったところ。――野口くんは、終わった?ちゃんと食べてる?」
『……終わってますってば』
 少々ふてくされているのが、目に浮かぶ。
 それくらいには、一緒にいたのだ。
『まあ、いいです。――で、土曜日返上で頑張ったんで、声くらい聞きたいと思いまして』
「……もう……」
 あたしは、クスリと、口元を上げた。
『……帰って来たら、一回はデートしてください。ご褒美欲しいです』
 その言葉に、ドキリと心臓が跳ねる。
 まだ、彼の中では、あたしは現在進行形なのだ。
「……帰ったら、ね」
 できない約束はしたくなかったけれど――今の状態では、断るのも怖かった。
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