Runaway Love
 やはり、終業時間を過ぎても仕事は終わらず、大野さんが、苦笑いしながらパソコンとにらみ合っているあたしに声をかけた。
「おい、杉崎、今日中に全部終わらせなきゃならねぇワケじゃねぇんだぞ」
「――わかってます」
「じゃあ、その辺にしとけ」
 あたしは、渋々うなづくと、書類を揃えてパソコンをシャットダウンした。
 今までの仕事が気になって、チェックをしていただけなのだが、やはり、野口くんも慣れていないので、ところどころ不備が見つかったのだ。
 ――明日、修正させないと。
 あたしは、付箋をつけて彼の机の上に書類を置く。
「――お先に失礼します」
「おう、暗いし、気をつけて帰れよ」
「ハイ」
 大野さんは、出していたファイルを棚に片付けながら、あたしを見やる。
 暗いと言っても、まだ、タクシーを出す時間でも無い。
 あたしは、いつも通り、支度を終えて正面玄関を出る。
 すると、バッグの中のスマホが振動し、あたしは慌てて取り出した。

 ――おうちデート、今週末、どうですか?

 岡くんからのメッセージに、一瞬固まり、苦笑いだ。
 そう言えば、そんな話をしていた。
 あたしは、早川との約束を思い出す。
 日曜日の午後からという話だったから、土曜日なら大丈夫だろう。
 そう返すと、着信になった。

『茉奈さん、今大丈夫ですか?』

 岡くんは、恐る恐るといった声音で尋ねる。
「大丈夫――ではないわね。帰るところ。部屋に着いたら、かけ直すから」
『わかりました』
 すぐに通話を終え、あたしは、心持ち急いでアパートに帰る。
 途中、後ろを振り返ってしまったのは――まだ、先輩の事が不安だったからだ。
 早川から聞いていても、やっぱり、気になってしまう。

 ――……これ以上何かされるなら、本当に、警察に駆け込もう。

 岡くんが持っている動画もあるし、きっと、叩けばホコリが出るだろうから。

 ――もう、あたしは、大丈夫だ。

 あの人が何を言おうが、何をしようが――崩れ落ちた棘は、もう、現れない。

 ほんの少しの痛みは――古傷として、いつか、癒えるだろう。


 部屋に入り、バッグをテーブルに置くと、少々せわしなくスマホを取り出す。
 妙な緊張感があったが、あたしは、深呼吸してリダイヤルした。

『お帰りなさい、茉奈さん。部屋、着きました?』

「――ええ。……た、ただいま……」

 ぎこちない挨拶に、岡くんは、電話の向こうで、クスリ、と、笑う。
『……お疲れ様でした。――で、土曜日、どうします?オレがご飯作るって言いましたけど、何かリクエストありますか?』
「……え、えっと……」
 あたしは、不意に、大阪にいた時の事を思い出す。

 ――……どんなに美味しい料理を口にしても……。

「……ま、前に作ってくれたオムライス、食べたい……」

 少しだけ、口ごもりながらも、あたしは伝える。
 すると、岡くんは、あっさりとうなづいた。
『わかりました!じゃあ、材料揃えておきますね!』
「え、あ、待って!」
 あたしは、慌てて彼の言葉を止める。
『茉奈さん?』
「……材料は、あたしが買って行くから」
『でも』
「いいから!……何でもかんでも、アンタに頼る訳にはいかないし」
『――……わかりました』
 一瞬、気を悪くしたかと思ったが、口調は柔らかいので、大丈夫なようだ。
 以前(まえ)は、岡くんが機嫌を損ねようが、知った事では無いと思っていたのに。

 ――……今は。

『じゃあ、材料、メッセージで送りますから、それだけ買ってください。お金は後で――』
「何でよ。あたしが頼んでるんだから、あたしが払うわよ」
『え、で、でも』
「少なくとも、アンタよりは稼いでるから」
 すると、電話の向こうで、岡くんは吹き出す。
「……何よ」
『いえ、そうですよね。……じゃあ、その分、愛情込めて作りますから』
 彼は笑いながら、そう言って通話を終えた。
 あたしは、画面が暗くなったスマホを見つめ、息を吐く。
 心臓の音は、いつもよりも速い。

 ――……ああ、もう……何よ、コレ。

 ……まるで、恋人同士のような会話に苦りたくなるが、心のどこかで、浮かれてしまう自分がいる。

 何だか、どんどん、自分の気持ちが、手に負えなくなってきた気がした。
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