Runaway Love
 少しずつ持っていった芦屋先生の本も、以前の半分ほど。
 これを持ち帰ったら、この部屋には、未練は無い。
 ――ここに来る事も……。
 そう思った瞬間、不意に階下(した)で大きな声が響いた。

「奈津美!!」

 あたしは、その声に驚き、部屋から出る。
 聞こえたのは、照行くんの声だ。
「どうしたの?」
 二階の廊下から、そう声をかけると、彼は慌てたようにリビングから顔を出した。

義姉(ねえ)さん!奈津美……陣痛来ました!」

「……え」

 その言葉に、頭が追いつかない。

 ――え?あれ?

 ……それ、って――……産まれる、ってコト?!

 あたしは、そう認識した途端、すぐに階段を下りる。
 リビングに入ると、奈津美が苦しそうに眉を寄せて横になり、照行くんはスマホで産婦人科に電話をかけていた。
「奈津美、大丈夫⁉」
「お……ね……ちゃ……」
 あたしは、慌てて奈津美の腰をさする。
 もう、何をしていいのか、わからない。
 すると、母さんが急いで荷物を抱えてやって来た。
「ホラ、タクシー呼んだから!準備、準備!陣痛はずっと続かないんだから、動ける時に動くんだよ!」
 こういう時、経験者は、言葉の重みが違う。
 あたしは、我に返り、奈津美を支えながら起こす。
 どうやら、今、波は引いたようだ。
「動けるかい⁉破水はしてないだろうね⁉」
「……う、うん……」
 てきぱきと指示を出す母さんのそばで、あたしは、ただ立ち尽くすだけだ。

「茉奈!アンタ、留守番頼むわよ!片付け途中だから、後、お願いね!」

「え、あ、わかった……」

 そう言って、すぐに到着したタクシーに三人で乗り込んで行く。
 あたしは、放心状態で、それを見送った。


 一人残されたあたしは、我に返ると、ひとまず部屋を片付け、途中になっていた洗い物を終える。
 お正月と誕生日仕様に揃えられた食事の残りは、冷蔵庫行きだ。
 頼まれたものを終えたあたしは、母さんの部屋をのぞき込む。
 奥の仏壇には、ごちそうがひとつまみずつ皿にのせられ、お線香は、まだ煙を立てていた。
 あたしは、その前に置かれた座布団に座り、顔を上げる。
 そこには、記憶の中と同じ、若い頃の父さんが写っていた。

 ――父さん……無事に産まれるように、見守ってて……。

 そう願い、手を合わせ目を閉じた。



 そして、その日の夜遅く――照行くんからメッセージが届いた。


 ――無事、女の子が産まれました。


 写真付きのそれを見た途端、あたしは、全身の力が抜けた。


 ――……良かった……。

 ……おめでと……奈津美……。


 そう思ったら、すぐに続きが来た。


 ――義姉(ねえ)さんと、同じ誕生日ですね。来年からは、三倍おめでたいですよ。


 ああ、そうだ。

 あたしは、時計を見やる。
 時刻は――夜の十一時半。
 まだ、ギリギリ元旦だ。

「……姪っ子と同じ誕生日かぁ……」

 もしかしたら、奈津美に怒られるくらいに、可愛がるのかもしれない。

 ――あたしが、自分の子供を望む事は、無いだろうから――……。
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