憧れと結婚〜田舎令嬢エマの幸福な事情〜

1、エマ

 美しい部屋だった。令嬢らのお喋りとドレスで華やいでいる。

 エマの対面に座るオリヴィアが、微笑みながら言う。

「ねえ、エマ。お姉様のダイアナは、家庭教師のお仕事にもう慣れた?」

 他の令嬢たちのふくみ笑いが広がった。単純な質問ではなく、エマへの皮肉や嘲笑の混じる問いなのは間違いようがない。

「ええ、そのようよ。手紙で知らせてくれたわ。向こうのお邸の方たちもとても親切だって」

「でも、住み込んで子供たちのお供もするのでしょう? わたしだったら絶対に務まらないわ」

「ね、ダイアナは州で一番の美人だって騒がれたのに、残念ね」

 エマは頬に笑みを貼り付けて、心の中で舌を出した。

(そう。ダイアナはあなたたちの百倍は美人よ。それに聡明で優しい)

 皮肉が通じないと、話題が変わる。彼女を置いて、令嬢らは噂話に忙しい。

 そこへ、庭につながる掃き出し窓が開いた。男性が部屋に入ってきた。彼女らにごく軽く会釈をする。光を受けて、深い金髪が輝いた。背が高くハンサムなその男性に女性たちの目が集まった。

「レオ、お飲み物はいかが? 歩いていらしたのでしょう? お疲れね」

 この邸の娘のオリヴィアはさっと立ち上がり、いそいそと男性に近づいた。

 レオと呼ばれた男性は、彼女の手からカップを受け取り、口を付けず部屋の中をざっと眺めた。

「キースは?」

「兄は所用で外出したの。じき戻るわ」

 オリヴィアは兄の友人らしい男性を椅子に招いた。彼はそれを断り、壁にもたれた。

 レオの素性を知りたがる友人らを素知らぬ風で、オリヴィアはつんと澄ましている。教えてやる気はないらしい。

 エマは立ち上がった。今日は姉の手紙が届いているかもしれない。その便りを読むのが、今の彼女の一番の楽しみだった。

「もう失礼するわ」

「あら、エマ。帰りは我が家の馬車で送るのに」

「ありがとう、オリヴィア。でも、いいわ。歩くから」

 レオの登場で会話が途切れていた。オリヴィアがすかさず、エマをネタに話し出す。

「レオ、ご存知? ハープ州のハミルトン家って。あなた、お知り合いが多いから」

「いや、知らない」

「エマのお姉様がそちらのお邸で家庭教師をしているの」

「ふうん」

 エマは男の視線が自分に向き、気まずい思いをした。中から上流の家で令嬢が働きに出るとなると、その家の内情が知れる。

 改めてエマは、知らない男性にまで余計なことを吹聴するオリヴィアを嫌らしく感じた。

「偉いと思うわ。他人の家に住んで、よその子の面倒を見るなんて。そんな風にたくましく育っていないもの、わたしには無理よ」

 オリヴィアのエマを貶す意を汲んでか、周りの令嬢らがくすくすと忍び笑いをした。

 エマは悔しさに唇を噛んだ。涙ぐんだが、泣くのは絶対に嫌だった。部屋を出ようと、ドアに向かった。

 その背に、男性の声が聞こえた。

「外に出た世間知のある女性はいいよ。話し甲斐がある」

「え」

「ドレスやレースの話はうんざりだから」

 オリヴィアが返事に詰まるのが知れた。

 思いがけない展開が痛快で、エマの頬が緩んだ。

「君」

 と声がかかった。

 呼ばれて、意外だが振り返る。真っ直ぐに自分を見るレオの目に会う。彼女の頬に笑みがまだ残っていた。

「午前の雨で道はぬかるんでいる。よければ馬で送ろう」

「ご親切に。でも結構ですわ」

「森の方まで駆けようと考えていたんだ。そのついでだから」

 エマがちょっと黙ったところで、レオはやや強引に彼女を促した。戸惑いつつも従ったのは、令嬢たちの羨ましげな視線を感じたからだ。ちょっとした意趣返しに思えた。

 幼い頃はそうでもなかったが、時折り、オリヴィアの自分への悪意をはっきりと知らされることがあった。

 知事の娘で、この辺りでは一番の権勢家とも言える。幼なじみの仲間たちは皆オリヴィアの機嫌をとって、彼女を笑い者にした。

(馬鹿馬鹿しい)

 それでも、田舎のコミュニティーは密で、つき合いは断ち辛い。特に彼女の母が一家が孤立するのを恐れた。この日も、招待を断る気でいたエマに、母が強く勧めてやって来ることになった。

(お父様が亡くなったから、不安なのはしょうがないのだけれど)

 レオは彼女が乗馬するのを助けてくれた。ドレスだから、横乗りになる。

 知らない男性との密着した時間が気まずい。景色を見ながら、なるべく側の男性を考えないでいようと意識した。
 草原は湿っていた。この中を歩いて家まで帰れば、時間もかかるし裾は泥だらけになっただろう。

(確かに助かったわ)

 エマの家に着いた。前庭に、弟のアシェルが鉄の輪を投げて遊んでいた。馬で帰って来た姉に駆け寄る。

 レオの手を借りて馬を下りた。彼女が礼を言うと、彼は冷めた表情のまま、

「オリヴィアの誘いから逃げるのにちょうど良かった」

 と返した。

「女と話すのはうんざりとなさる?」

「そうじゃない。ただ退屈な時が多い。オリヴィアは特に…」

 そこで彼女は笑いが込み上げた。手で口元を押さえ、顔を背けた。

「レオ・ウォルシャー。キースの友人だ。今、あの邸に滞在している」

「エマ・スタイルズ」

 好奇心いっぱいにドレスを引っ張るアシェルを前に、後ろから抱き、

「弟のアシェルです。八歳なの」

 と紹介した。

 レオは彼女には向けなかった笑顔を弟に見せ、その髪をくしゃりとなぜた。

 そこへ、母親もやって来た。

「窓から紳士の方がいらっしゃるのが見えたの」

 レオは姉弟の母親に丁重に挨拶をした。若い令嬢には素っ気ない風なのに、その態度がエマには意外だった。

「キースのご友人なの。ボウマンのお邸に滞在されているそうよ」

 それで終わりのはずだった。レオは騎乗し乗馬の続きを始めるだろうし、自分たちは館に入る。

 しかし、母親が朗らかな声を出した。

「キースのお友だちなら、親近感が湧くわ。我が家でお夕食をご一緒になさいません? 女世帯でささやかな晩餐ですけれども。お若い方には田舎は変化がなくて、お退屈でしょう?」

 母の申し出に、エマは面食らった。

(よく知りもしない男性を食事に招くなんて)

 母の軽率な親切が恥ずかしい。レオがどんな表情をしているのか、見るのが怖いほどだった。

「お母様…」

 上目遣いで母を見る。

「ご迷惑よ」

「いや、そんなことはありません。喜んでお招きをお受けします」

 レオの返しに彼女はぎょっとした。不快げでもなく、けろりとした顔をしている。

「お兄ちゃん、お夕飯に来るの? うちのお夕飯は七時だよ」

 アシェルがはしゃいだ声を出す。

 レオはそれに頷きを返し、

「では、七時に伺います」

 とひらりと馬に乗る。

 彼が去り、エマはすぐに母に不平をもらした。

「どうしてご招待なんてしたの? 初めて会った方よ」

「あら、キースのお友だちの紳士なら、きちんとした方じゃない。あなただって、ぼうっと見ていたくせに」

 母の言葉にぐっと詰まる。実際そうだった。洗練された雰囲気の素敵な紳士は、田舎ではなかなかお目にかかれない。

 母親はそれ以上は追求せず、

「アシェルも若い男性のお客様は嬉しいわ」

 と微笑んだ。

「メイドに言って、お魚を用意させないと。メインを二品するなんて久しぶりよ」

 母について館に入りながら、エマは複雑な気分だった。


 レオは豪華な花束を抱えて約束の時間にやって来た。

 ボウマンの邸とは違い、客間も食事室もささやかなものだ。母は男爵家の出だが、スタイルズの家は貴族ではない。地所を所有する田舎領主だ。

「主人が亡くなったのは五年前です。地域の皆さんは気にかけて、良くして下さいますの。ほら」

 母親がキャンドル越しに、レオの持つフォークを手のひらで示す。

「ドレイクさんからいただいた豚肉よ。あちらは生育にとても気を遣われていて、肉質がきめ細かくて」

「はい、おいしいです」

「一緒に煮込んだリンゴは僧院の方から頂戴したもの。困っていやしないかと、気を回して下さるのはありがたいわ」

母の貰い物自慢が恥ずかしく、エマは咳払いをした。アシェルの口元を拭いてやりながら、レオに尋ねた。

「こちらには、何か目的があっていらっしゃったの?」

「キースには前から猟に誘われていて、景観も素晴らしいと聞いていたから興味があったんだ」

「ご出身はどちら?」

「グロージャーです」

 尋ねた母親が、あら、という顔をした。

「北西部のグロージャー?」

「はい。近在の村は…」

「レイモンドね」

「ご存知ですか?」

「ええ。娘時代に数年過ごしたことがあるの。素敵な土地だったわ。村の外れに穴だらけの大きなオークの木があって」

「僕も子供の頃よく出かけました。側に池があって、釣りができるのです」

「そうだったわ。大ナマズが棲むって噂があった」

「知っています。嬉しいな、旅先で地元をよく知った方に会うと」

 レオは笑顔を見せている。母との意外な共通点がエマには驚きだ。二人は親しく知った土地の話を交わしている。表情から、レオが食事の時間を楽しんでいるのがわかり、彼女も気が楽になる。

(母への儀礼で受けてくれた招待だけれど、良かった)

 その母が小首を傾げている。

「でも、グロージャーのウォルシャー家と言えば、あの一帯の大領主のお名前しか知らないわ。ご当主は爵位もお持ちのはず」

「僕の家です」

「え」

 瞬時、母は固まったように黙り込んだ。

「どうかして? お母様」

「階層の違う方を気軽にご招待して、失礼だったわ。ごめんなさい」

 エマには母の狼狽がわからない。母は貴族の出だし、スタイルズ家は領主の家だ。「階層が違う」という表現は大袈裟に感じた。規模の違いはあれど、レオとは同じ立ち位置に思えるのだ。

「おかしなお母様」

「あなたはあのお邸を見ていないからよ。北西部の庭園と名高い素晴らしいご領地よ。お邸もそれは美しくて大きくて」

「ボウマンのお邸も立派よ」

「違うの、違うのよ。知事邸も立派だけれど、次元が違うわ」

 母の強調っぷりに、レオが苦笑している。それを見て、またにわかに彼女は恥ずかしくなる。

(勝手にお誘いしておいて。今更恐縮ぶるなんて、ずるいわ。もらった豚肉の話なんかしたくせに)

「どうぞ、召し上がれ」

 彼女は魚料理を彼へ取り分けて、何とか場を持たせた。

「確かに邸は僕らの誇りです。けれど、あなた方と何が違う訳でもありません」

「違うわ、ウォルシャーさん」

「レオと呼んで下さい」

 レオはエマの取り分けた魚をぱくりと頬張り、彼女を見た。咀嚼の後で、

「エマ、君も」

 と言う。

 ちょっと視線が絡む。ささやかなその出来事に、エマは胸の奥がくすぐったく疼くのを感じた。

 彼女が返すより早く、アシェルが、

「レオ」

 と高い声で呼んだ。それに皆が笑う。

「ええ」

 遅れて彼の言葉に応じた。頬が熱いのを、彼女はわずかなワインのせいにした。
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