憧れと結婚〜田舎令嬢エマの幸福な事情〜

31、会いたくない

 行くあてもないが、何となく通りを歩く。海まで行こうとして、風の強さに躊躇った。

(風に当てられ、今度はわたしが熱を出してもいけないわ)

 商店のウィンドウを眺めながら歩いた。立ち止まったのは、宿から少し行った先のオルゴールが飾られた店だ。動くこともない、ただ置かれただけの品だ。季節が良く、人の多い時であればネジも巻かれるのだろう。

 別の店では、陶器の人形がたくさん陳列されてある。知事邸に似たような物が集められて飾られてあったのを思い出した。少女の頃のオリヴィアが、落として壊してしまったのを見たことがあった。

(オリヴィアではなく、お母様のご趣味ね、きっと)

 彼女が指を触れたガラスに、ふと影が出来た。目をやると、以前マシューと名乗った紳士だった。彼女へ微笑んだ。

「こんにちは」

「お一人ですか?」

「ええ。暇なのはわたしだけですから、散歩に来ました」

「僕も。連れに客人が来て、席を外してきました。外は気楽です」

 そう言って、少しだけ肩をすくめた。

 誘われて、広場まで歩くことになった。頷いたのも、やはり旅先の気楽さだ。

(それに、ダイアナとフィッツのことを考えると、気持ちが逸るから)

 芝が美しい広場も落ち葉が積もり、今の時期は寂れて見えた。所々立った彫刻を眺める人もない。本来は、音楽が奏でられ人々が集う賑わいだ場所だ。

 教師らしく博識なマシューが、彫刻についてエマに説明をしてくれた。

「見方によれば、贅沢ですね。高名な作品を独り占めできるのだから」

「ええ。お詳しいのですね。美術の先生なのですか?」

「いや、連れが詳しいのです。彼からの受け売りです。着いた当初は二人でよく見にやって来た」

 芸術作品が好きだとしても、わざわざこの季節に訪れ滞在するのはおかしな気がした。しかし、軽い知人で、詮索するのは失礼だ。エマは微笑んでそれ以上の疑問を流した。

「お姉さんはお元気になりましたか?」

「ええ、ありがとうございます。明日には立てそうです」

「そうですか。それは良かった。ここは、見るものもなく、今は滞在するほどの価値もないでしょうから」

「マシューさんはいつまで?」

「さあ、連れ次第ですね。僕は静かで気に入っていたのです。でも、もう長くはいられないようだ…」

 返事のしようがなく、彼女はボンネットに手をやって黙った。

 しばらく広場を歩いた後で、宿に戻るため二人は方向を変えた。

 そこで、声がかかった。

「コックス君」

 男の声だった。呼ばれて、マシューはそちらへ向いた。声が続く。

「来てくれないか。ジェラルドが呼んでいる」

 エマはなぜか胸が騒いだ。

(え?)

 それは聞き覚えのある声だった。

(まさか…)

 マシューに倣い、彼女も声の方へ顔を向ける。彼女たちからやや離れた場所に、若い紳士が立っていた。高い帽子を頭に載せたその下の顔に、彼女は心臓が止まるかと思った。

(レオ)

 そこにいたのはレオだった。彼女の驚きに遅れ、彼も気づいた。目を見開いている。

 彼女は思考も何も出来ず、感情も止まったままだ。意外性と驚きが全てを凌駕し、固まってしまう。

 何も言葉を発せないでいる二人を置いて、マシューが静かに返した。

「今戻るところでした」

 それに、彼女の中の時が動き出す。

「マシューさん、わたし、失礼します」

 彼女は全てから背を向け、小走りに広場を進んだ。足がもつれそうになり、少しだけスカートを摘んだ。

 何も考えられず、ただ別な場所に逃げ出したかった。

(レオのいない場所に)

 なぜそうするのか、その理由などない。

(嫌だ)

 そう思ったから、身体が反応したまでだ。

 夢中でそうしていたため、小さな段差につまずいた。転びそうになるその瞬間に、自分の腕をつかむ誰かの腕があった。

 やはりレオで、息の上がった顔を彼女は彼へ向けることになった。

「どうして?」

 彼の問いだ。

 逃げたことへのものか、この地にいることへのものか。何の疑問かわからず、彼女はすぐに瞳を伏せ、顔を背けた。

 程なく、彼が腕を解く。

「急に走り出すと危ない」

 彼女は俯いたまま、礼を言った。ごく小さなもので、彼へ聞こえたかも定かではない。

 自分へ注ぐ視線が痛いほど熱い。

 エマはそれを避けるように歩き出した。その背に声がする。

「エマ」

 彼女は振り返らなかった。

 彼ももう追いかけない。

 広場を反対から出た先だ。少し進むとハミルトン氏の姿が見えた。一人のエマを気遣って、見に来てくれたようだ。

 彼女へ手を振る彼へ、駆けた。距離は短く、すぐに尽きた。

 差し出された腕を取る。彼の横顔が嬉しさに満ちている。

(二人の思いは実ったのね)

 暗い嵐のように波立った心を、ダイアナの幸せが照らした。思いは乱れたままだが、今に目が向く。

「寒かったのじゃないか? こんな風の中外を歩いたりして」

「…そうでもありません」

「明日、朝には立とうかと。ダイアナさんにも話してある。彼女の体調もいいようだ。どうせなら、向こうでゆっくりと休んだ方がいいだろうと思ってね」

 エマは何の異論もなく頷いた。

 一度、後ろを振り返りかけた。再び目にしたレオは、面差しが少しだけ変わっていた。頬がやや削いだように見えた。

(見てどうするの?)

 唇を噛んで、衝動をやり過ごした。
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