憧れと結婚〜田舎令嬢エマの幸福な事情〜
5、雨にぬれて思うこと
「持って」
エマへ手綱を預け、レオはアシェルを引き取った。肩に担ぐように抱いている。
「ありがとう。重いでしょう」
「軽いよ」
「走り回って、疲れたみたい」
「どこへ行っていたの?」
「僧院でいちご狩りをしていたの。遊び相手もいるから、アシェルも連れて行ったのよ。この時期、ピクニックも兼ねて毎年ベルが催すの」
「ふうん」
なぜか彼は不機嫌に唇を歪ませた。
「どうかして?」
「僕は、オリヴィアから君が風邪を引いたと聞いた。だから、今日の狩りに来られないのだと」
「え」
彼女はベルの言葉を思い出した。「オリヴィアは先約がある」といちご狩りを断ったという。その先約は、レオたちもいる狩りの催しに違いない。
オリヴィアなりの理由で、彼女を呼びたくなかったのは構わない。嘘をついてまで避けたというところに悪意を感じるが、それもいつものことだ。ついた嘘の先を考えていないところなど、オリヴィアらしいとも思う。
「君の見舞いに向かう途中だった。馬鹿みたいだ」
嘘をつかれて気分のいい人間はいない。苦いものを噛んだような表情が残っていた。エマはちらりと横顔を見上げ、
(わたしは彼を偽らない)
ひっそり胸に誓う。そして、そんな自分の心に頰が熱くなった。
館に着いた。
レオはメイドにアシェルを預けた。騒ぎに母も現れた。
「あら、レオ、あなたもいちご狩りにいらっしゃったの?」
「いいえ、僕はキースたちと狩りに」
と馬の鞍に下げた狩りの獲物を差し出した。
「少しだけ、エマに付き合ってもらってもいいですか。暮れない間に送ります」
母親に断り、レオは彼女を馬の方へ促した。馬に乗せてくれるという。先に乗った彼が、彼女の手を取り引き上げた。
一度、彼とこうしたことがあったが、何も意識しない時のことだ。今とは心境が違う。寄り添い過ぎてははしたない気がし、離れていては身体がふらついて怖い。大きく揺れて、思わずぎゅっと彼の胸にしがみついた。
「それでいいよ」
すぐ側で笑いを含んだ声が返る。決して閉じられていないのに、二人きりの別な空間が出来てしまっている。それが彼女を緊張もさせ、ひどくときめかせてもいた。
草原を抜け、なだらかな丘陵に達した。緑の絨毯が家々や木々など模様を織り込んで、彼女たちの目の前に広がっている。
森の近くの湖まで駆けた。釣り糸を垂れる人がまばらにいる。馬を下りて歩いた。
「前に預けた邸への手紙は出してくれた?」
「…ええ。出したわ」
「祖母は驚くと思う。僕が女性を招待したいと書いて送るのは初めてだから」
「不快な思いをなさらない?」
「どうして?」
「何の紹介もない田舎娘よ。わたしは名門のオリヴィアとは違うわ」
「あの子は嫌だ」
きっぱりと言い切ったその言葉が嬉しかった。
これまでオリヴィアから受けた数えきれない仕打ちを、彼女は平気と流してきたつもりだった。なのに、確かにその残滓はあって、それがレオの拒絶の言葉に、今溶けていくようだった。
自分の中の湿った感情に気づいたが、どうでも良かった。
不意に暗く陰った。雨雲が立ち込め、今にも降り出しそうだ。あ、と稲光を感じた途端、雷鳴が響いた。地面が振動するほどの轟に、エマは短い悲鳴をあげた。
彼が腕を差し出した。つかんでいいという仕草だ。おずおずと腕に触れたのち、ぎゅっと両手でつかむ。
間もなく大粒の雨が降り注ぐ。木々の葉を叩く音は大きく、視界が遮られるほどの勢いだった。
「しばらく動けない」
「ええ」
木陰に逃げた。それでも髪も肩もぬれる。彼はすぐに帽子を彼女の頭に載せ、上着を脱いで、着せかけてくれる。
再び大きな落雷があり、彼女は震えて彼の腕にしがみついた。そこで、レオが笑う。髪から雫の落ちる顔を彼女へ向けた。
「僕は嬉しい」
「意地悪」
雨足がやや緩むのを待って、彼が手を引いた。つないだ馬に彼女を乗せ、湖から馬首を返した。
「僕にしがみついてくれないか。落馬する」
恥じらいは二の次だ。エマは彼の身体に腕を回して抱きついた。ぬれた衣服を通して、触れ合う互いの肌の温もりが伝わる。冷たい雨に身体は冷えていたが、寒さを感じなかった。
彼はこの時を「嬉しい」と言ったが、遅れてエマだってそう思う。
(わたしも今が嬉しい)
館に着き、レオが彼女を馬から下ろしてくれた。ぬれて冷えた身体が、ぎこちなく滑り落ちる。それを彼が助け起こした。
「このまま失礼するよ。母上に、君を雨にぬれさせたことを僕が詫びていたと」
「身体を拭いていらして」
「いや、いい。ボウマンの邸に戻って着替えるよ」
彼女から受け取った上着と帽子を馬の背に載せる。
鞍に触れ、騎馬する直前に彼はもう一度彼女へ振り返る。彼女の腕を取り、引き寄せた。あ、という間もなく優しく腕に包まれた。
すぐに抱擁を解く。
「じゃあまた」
彼女は瞬くばかりで声が出せなかった。思いで喉が塞がれたように、もどかしいほど言葉が出ない。
そのまま彼を見送った。
エマへ手綱を預け、レオはアシェルを引き取った。肩に担ぐように抱いている。
「ありがとう。重いでしょう」
「軽いよ」
「走り回って、疲れたみたい」
「どこへ行っていたの?」
「僧院でいちご狩りをしていたの。遊び相手もいるから、アシェルも連れて行ったのよ。この時期、ピクニックも兼ねて毎年ベルが催すの」
「ふうん」
なぜか彼は不機嫌に唇を歪ませた。
「どうかして?」
「僕は、オリヴィアから君が風邪を引いたと聞いた。だから、今日の狩りに来られないのだと」
「え」
彼女はベルの言葉を思い出した。「オリヴィアは先約がある」といちご狩りを断ったという。その先約は、レオたちもいる狩りの催しに違いない。
オリヴィアなりの理由で、彼女を呼びたくなかったのは構わない。嘘をついてまで避けたというところに悪意を感じるが、それもいつものことだ。ついた嘘の先を考えていないところなど、オリヴィアらしいとも思う。
「君の見舞いに向かう途中だった。馬鹿みたいだ」
嘘をつかれて気分のいい人間はいない。苦いものを噛んだような表情が残っていた。エマはちらりと横顔を見上げ、
(わたしは彼を偽らない)
ひっそり胸に誓う。そして、そんな自分の心に頰が熱くなった。
館に着いた。
レオはメイドにアシェルを預けた。騒ぎに母も現れた。
「あら、レオ、あなたもいちご狩りにいらっしゃったの?」
「いいえ、僕はキースたちと狩りに」
と馬の鞍に下げた狩りの獲物を差し出した。
「少しだけ、エマに付き合ってもらってもいいですか。暮れない間に送ります」
母親に断り、レオは彼女を馬の方へ促した。馬に乗せてくれるという。先に乗った彼が、彼女の手を取り引き上げた。
一度、彼とこうしたことがあったが、何も意識しない時のことだ。今とは心境が違う。寄り添い過ぎてははしたない気がし、離れていては身体がふらついて怖い。大きく揺れて、思わずぎゅっと彼の胸にしがみついた。
「それでいいよ」
すぐ側で笑いを含んだ声が返る。決して閉じられていないのに、二人きりの別な空間が出来てしまっている。それが彼女を緊張もさせ、ひどくときめかせてもいた。
草原を抜け、なだらかな丘陵に達した。緑の絨毯が家々や木々など模様を織り込んで、彼女たちの目の前に広がっている。
森の近くの湖まで駆けた。釣り糸を垂れる人がまばらにいる。馬を下りて歩いた。
「前に預けた邸への手紙は出してくれた?」
「…ええ。出したわ」
「祖母は驚くと思う。僕が女性を招待したいと書いて送るのは初めてだから」
「不快な思いをなさらない?」
「どうして?」
「何の紹介もない田舎娘よ。わたしは名門のオリヴィアとは違うわ」
「あの子は嫌だ」
きっぱりと言い切ったその言葉が嬉しかった。
これまでオリヴィアから受けた数えきれない仕打ちを、彼女は平気と流してきたつもりだった。なのに、確かにその残滓はあって、それがレオの拒絶の言葉に、今溶けていくようだった。
自分の中の湿った感情に気づいたが、どうでも良かった。
不意に暗く陰った。雨雲が立ち込め、今にも降り出しそうだ。あ、と稲光を感じた途端、雷鳴が響いた。地面が振動するほどの轟に、エマは短い悲鳴をあげた。
彼が腕を差し出した。つかんでいいという仕草だ。おずおずと腕に触れたのち、ぎゅっと両手でつかむ。
間もなく大粒の雨が降り注ぐ。木々の葉を叩く音は大きく、視界が遮られるほどの勢いだった。
「しばらく動けない」
「ええ」
木陰に逃げた。それでも髪も肩もぬれる。彼はすぐに帽子を彼女の頭に載せ、上着を脱いで、着せかけてくれる。
再び大きな落雷があり、彼女は震えて彼の腕にしがみついた。そこで、レオが笑う。髪から雫の落ちる顔を彼女へ向けた。
「僕は嬉しい」
「意地悪」
雨足がやや緩むのを待って、彼が手を引いた。つないだ馬に彼女を乗せ、湖から馬首を返した。
「僕にしがみついてくれないか。落馬する」
恥じらいは二の次だ。エマは彼の身体に腕を回して抱きついた。ぬれた衣服を通して、触れ合う互いの肌の温もりが伝わる。冷たい雨に身体は冷えていたが、寒さを感じなかった。
彼はこの時を「嬉しい」と言ったが、遅れてエマだってそう思う。
(わたしも今が嬉しい)
館に着き、レオが彼女を馬から下ろしてくれた。ぬれて冷えた身体が、ぎこちなく滑り落ちる。それを彼が助け起こした。
「このまま失礼するよ。母上に、君を雨にぬれさせたことを僕が詫びていたと」
「身体を拭いていらして」
「いや、いい。ボウマンの邸に戻って着替えるよ」
彼女から受け取った上着と帽子を馬の背に載せる。
鞍に触れ、騎馬する直前に彼はもう一度彼女へ振り返る。彼女の腕を取り、引き寄せた。あ、という間もなく優しく腕に包まれた。
すぐに抱擁を解く。
「じゃあまた」
彼女は瞬くばかりで声が出せなかった。思いで喉が塞がれたように、もどかしいほど言葉が出ない。
そのまま彼を見送った。