ハイスペミュージシャンは女神(ミューズ)を手放さない!

誰かのせい?

 当然の如く、休日前夜は大抵隆介の家へ行き、彼の大きなベッドで休むところから休日を過ごしていた。
 
 久しぶりに我が家で過ごす雫は起きぬけに、ぼーっと部屋を見つめた。己の部屋の狭さが、自分のキャパシティや存在価値を示しているような気がしてしまう。広い家に住む人はそれだけキャパシティも広くて、余裕があって、多くの人に存在を認められている、というような。

 昨日は、その場しのぎにキオスクでマスクを買い、その場で着けた。仕事終わりで結んでいる髪も解いて、少しでもカモフラージュになればと思いながら俯きがちに家路を急いだ。帰宅時の隆介のマスクの訳を気にはしていなかったけれど、こういうことを防ぐためだったかもしれないと勝手に納得した。

 時刻を確認しようと、充電コードに繋がれた端末の画面をタップする。時刻は6時28分。昨日の日付で、ちょっと話せる?と多田からのメッセージが入っていた。雫が寝付いてからすぐのメッセージだったようだ。まだ早いかもしれないけれど、逆に起きていることを想像して、多田のメッセージ画面から通話を呼び出した。

「あっあの……」
「おはよう、雫ちゃん」
「おはよう、ございます。多田さん」
「よく眠れた?」
「いえ。でも、一応寝ました。隆介さんは……?」

 きっと彼のことは多田が守ってくれていると信じられる。この時間は隆介の生活サイクルならようやくしっかり眠りについた頃。起こしたくはなくて、多田にかけたところもある。

「少し前に4階に上がってったから、そろそろ寝てるんじゃない?昨日は切れてて手に負えなかったけど。ごめんね、あんなことになって」
「そうですか……ひとまず、よかったです。昨日のこと、あまりに急で、まだ受け止められてなくて……」
「そっか。じゃあ僕から説明させてもらってもいい?」
「お願い、します」
「多分発端は、この間のライブの顔出しなんだけど――」

 重要そうな話に思わずベッドの上で思わず正座する。多田にも憶測でしかない部分があるらしく、これは違っているかもしれないんだけどとか、想像の域を抜けないんだけどとか、丁寧に順を追って説明してくれた。

 話を要約すると、お見送り時にメンバーの乗る車を追いかけるような、"一部の悪質なファン"が増えたことで起こった「ガチ恋」と「追っかけ」による特定のせい、らしい。ビルを特定され、仕事終わりの深夜に追いかけ回され、挙げ句の果てにはそこに出入りする人を監視するものまで現れたというのが事務所としての見解だそうだ。

「まあ、正直これは顔出しした時点で見えていたことではあるし、メンバーもその覚悟を持ってやってる。俺たちはこんなことで歩みを止めるつもりはない」

 多田の声は起きたてにしてはっきりしすぎていて、おそらく昨日から寝ずに様々な対応をとっているのだろうと想像ができた。あまり身内を増やすとそこから情報が漏れるからといって、彼らの会社は多田以外のスタッフをアルバイトだけにしている。きっと昨日の騒ぎも、多田が一人で対応してくれたのだろう。

「俺たちは、隆介が絶対だ。隆介がやるというなら、それに従う。それは……雫ちゃんのことだって同じように。覚悟は、できた?」

 そろそろ決断を聞かせてくれないかとこちらに問う声は、至って冷静だ。いつか話そうと言っていた時間は作れていなくて、気づけば1ヶ月近くが経っている。多分、追求せずにこちらを見守ってきてくれていたのは、彼なりの最大の応援で譲歩だったのだろう。

「覚悟……できませんでした」

 こんなことになるとも思っていなかったし、二人で静かに幸せになんて甘いことを考えていた。彼に恋するファンの気持ちも、追いかけてしまう辛さもわかるからこそ。そんなファンのために曲を作っている彼の邪魔をする自分は、最大の足枷で最大の邪魔者だ。

「いやでも、隆介は雫ちゃんのことなら全力で助けてくれると思うけど……」

 少し焦ったような上擦った声がする。まるで予想外だと言わんばかり。それでも、雫は言葉を選びながら慎重に多田へ想いを伝える。

「それじゃ、ダメなんです。隆介さんの手は私を助けるためじゃなくて、音楽を届けるためにあるものです。私は普段の、近衛さんが好きで。でも、近衛さんを好きでいるには……私は小物すぎて。バランスが、悪いんです」

 通話相手は無言で、若干鼻を啜るような音がする。
 
「隆介さんには……ちゃんとお別れを言うので。もう少しだけ、待ってもらえませんか。それで……お付き合いは事実じゃないって、否定してください」
「いやいや、あのさ、俺は別れさせたいわけじゃないのよ。大変でも一緒に歩いてやって欲しいんだよ。雫ちゃんはそれで本当にいいの?納得できてないよね?」
「今回のことが起こる前から、そろそろかなって。私じゃないかもって、思ってました。だから、大丈夫です」

 雫は、自分で言っていて心底苦しいくせに、自分ではない人が彼の隣に立つべきだと心の底から信じていた。自分のような幼い感覚ではなく、もっと広い心で活動を応援して支えたり、彼が彼らしくいられる場所になる人がいると。

「いやいやちょっと待とうよ。俺がそそのかしたみたいな感じだけどさ!絶対良くないって!そういうこと一人で決めるの」
「あっいえ、多田さんは本当に悪くないんです。ただ私が打たれ弱くて、耐えられなくて。私が言うのもおかしいですけど、彼のこと……よろしく、お願いします」

 見えない向こう側の多田に向かって、深々と頭を下げる。頭は布団についたまま、起き上がる気持ちにはなれない。ひとまずこっちで検討してまた連絡するから、やけにならないで!という多田の言葉で通話は切れた。15分ほどの電話は、昨日の浅い眠りでチャージされた僅かな気力を使い果たす、重いものだった。そのままこてんと横へ転がるように体を倒した。

 今日は主任かそのまた上の人か、さらに上――流石に店長はないだろうけれど、そんな人からも聞き取りの電話が来るのだろう。寝転がったまま、壁掛けのカレンダーを横目で眺める。

 今月の勤務日数は、あと10日。
 その次の契約は、色々なタイミングが重なっていてまだ結べていない。

 ◇◇◇

 株式会社As 代表取締役社長 多田 浩は、猛烈に悩んでいた。

 己の軽率な言葉のせいで、女神を手に入れた大魔王様の機嫌を損ねる事件が、発生しつつある。

 理由と原因を突き止めればなんとかなるのではないかともがくが、10も離れた女性のことなど全く理解できるわけがない。脳内では「所詮それまでだったってことさ」と囁く悪魔と「二人を繋げるのはあなたしかいないのよ」と叫ぶ天使の、押し問答の時間が続いていた。

 雫からの話したい事というのは「私やっと覚悟できました!頑張ります!」の予定だった。

 俺自身も応援していると伝えはずだし、彼女だって隆介と離れ難いような雰囲気だった。はいと答えればいいように「頑張る決意はできた?」と聞いたのに、彼女は確かに否定をした。

 俺があのふたりの甘すぎて吐きそうな空間を、読み違えているはずがないというのに、何故。自分にもバンドメンバーにも頑なに心の内を明かさず、フラッと海外へ行った隆介を救ったのは間違いなく雫だ。

 隆介の失踪の日、多田はもうこのまま蒸発してしまうのかもしれないと感じていた。最近活動が落ち着いてきていたとはいえ、このまま無期限の活動休止もしくは事務所までも解散という、最悪中の最悪のルートも考えていた。そんな大ピンチを救ったのが、雫なのだ。二人の恋路を茶化しはすれど、応援しないわけがない。

 確かに最近隆介は、CMソングやアイドルの作曲などでも引っ張りだこだ。"稼げるうちに稼げ"がモットーの俺たちが、入れられる限りの仕事を詰め込んでいることも事実。でも、そんなことの積み重ねだけで彼女が隆介を手放せるとは思えなかった。

「もしかして俺、板挟みの人間として一番やっちゃいけないことしたんじゃ……」

 頭を抱えているとどくどくと心臓が走り出した。徹夜明けで脂ぎった頭を抱えていると、スマートウォッチが心拍数急上昇のアラートを鳴らしている。兎にも角にも、雫ちゃんを止める手段と、別れてしまった時の隆介のなだめかたの両方を、早急に考えなくてはいけない。多田は24時間以上マルチタスクに使いすぎて動かなくなった脳に熱々のカフェインを入れて椅子に座り直し、普段のプロモーションプランを練る時の数十倍は熟考し、最悪の展開パターンに備えることにしたのだった。
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