ハイスペミュージシャンは女神(ミューズ)を手放さない!

無駄なことなんてない

 目が覚めたのは、それから少し経ったブランチ頃の時間。昨日隆介がかぶっていたと思われる厚手の毛布がかけられていた。暖かな空気に流されてきたコーヒーの香りが鼻を抜ける。

「……起きたかな。無理させてごめん」
「あっ、大丈夫、です。心地よくてすごい寝ちゃいました」
「ちょっと早いけどお昼にしようか。目玉焼き、食べる?」
「えっ嬉しい!いただきます!」

 そろそろ起きると予想してくれていたのか、キッチンにはトーストとサラダがワンプレートに乗せられた2人前の朝食が用意されていた。そこに目玉焼きまでついてくるなんて、豪華すぎる。

「せっかくだから、ゴーザウ湖まで行ってみようと思うんだけど、一緒にどうかな」
「っ行きたいです!バスで1時間くらいでしたっけ……?ちょっと距離あるから、ひとりではもう諦めてて」
「なら、さっさと食べて出発だな」

 今朝のお喋りのおかげか、なんとなく感じていた体のこわばりがない。初めての土地での女ひとり旅がどれだけ体に負担だったのか、どれだけ気を張っていたのか、いまさらながらに痛感する。
 彼がどんな仕事をしていて、どんなふうに日本で生活しているのかなんて、もはや正直どうでも良いかもしれない。彼は、憧れの地のこの瞬間を、一緒に楽しんでくれている。それだけで満足している自分がいた。

「見てください、近衛さん!牛が草食べてる!かわいい!」
「あぁ、ほんとだ」
「白い壁と三角屋根のお家って、なんでこんなに可愛いんでしょう……憧れちゃいます」
「日本ではなかなか見ない雰囲気だもんね」

 ゴーザウ湖へむかうバスは運良く途中から貸切状態で、雫はまさに「大はしゃぎ」と言われてしまっても仕方ないほどに、テンションが上がってしまった。

「湖に着く前から楽しそうでこっちもつられるな」
「あ……すいません。この旅行、あと2日なのにここまで誰とも感想言ったりしなかったから……楽しくて」
「謝らなくて良いよ。むしろありがとう」
「え、どうして?」
「君と出会わなかったら、俺もずっとあの小屋に篭りっきりだっただろうから」
「ふふっ。それなら私達、出会えてよかったですね」
「あぁ、本当に」

 平坦なハイキングコースを巡りながら、水の色が日本と違って見えるとか、ハイジに出てくる景色にも似てるねとか、そんな感想を言い合った。

「せっかくだから、たくさん撮ってくれてもいいですよ」
「仰せのままに」

 雫は、カメラには明るくない。彼の愛機がお手軽なものなのか高級なものなのかも全く判断できない。けれど、それでもカメラを構える彼があまりに楽しそうにファインダーを覗いている姿を見ると、彼が魅了されているその世界に自分も入れて欲しくなった。
 
「〜〜♪」
 
 青々と茂った芝に、白く雪の残った山頂。こんな景色の中を歩いていれば、あの映画の冒頭で主人公が歌う名曲を歌いたくもなる。
 
 教会の鐘の音も、小鳥の囀りも、オープニングシーンのように聞こえてくる気がした。ワンピースを着ていたらくるくると回りたいくらいに、逸る気持ちを抑えきれない。歩道の側に生えた細い白樺の間を抜けて、雫にカメラを向けている隆介を巻き込み、スキップする。彼の手を取って一緒に口ずさんでいる間、雫は主人公のマリアそのものだった。

 彼の小屋へ戻った頃には、市街地からホテルのある地域への連絡船はもう終わっていて、結局今日も寝床を借りることになった。

 ◇◇◇

「……雫、俺と一緒にいてつまらなくない?」

 歩き回って疲れた足を癒そうとソファに座り、一日を思い出しながらゆっくりと流れる時間を楽しんでいると、窓の外を眺めていた隆介が話しかけてきた。

「……時々思うんだよね、俺ってつまんない人間だなって」
「そうですか?私は楽しいことだらけでしたけど……」
「ひとりで仕事してると、これって意味あるのかなとか、無駄にしたくないなとか、そういう効率的なことばかりでさ。ちょっと前に大きい仕事を終わらせたら、それで燃え尽きちゃったっていうか。……それ以来、何もかもが無意味に見えて、楽しくなくて」

 彼が用意してくれたコーヒーの湯気で窓ガラスは曇り、反射している彼の表情は窺えない。そこにあるのは少しかすれた声と、小さく見える背中だけ。

「でも、今日は本当に、久々に楽しかったんだ。お礼を言うだけじゃ足りないくらい。……ありがとう、雫」
「ふふっ。私もすごく幸せな時間でした。近衛さんとだから、楽しかったんだって思います。ありがとうございます」

 ただシンプルにどういたしましてと返すよりも、私はこんなにも嬉しく、感動しているのだと、今の自分の気持ちを素直に彼に伝えたかった。

「私も、ここへは癒しを求めてきたのか、刺激を求めてきたのか……よく分かってなかったです。時間が癒してくれるって信じて、予定をいっぱい詰め込んで誤魔化して。目的地のないまま、ただ闇雲に歩いてるような感じで」
「……似たようなものだね」

 このままどこかへフラッと消えて行ってしまいそうな背中にそっと寄り添うと、隆介は一瞬驚いた顔を見せて雫の肩を後ろから抱きしめた。

「でも私、昨日も言いましたけど、無駄なことはないと本気で信じてるんです。『無駄に思えることでも無駄じゃない。無駄だなと思ったら、それはもう少し先の未来で役立つように、今経験してるだけ』って、亡くなった父がよく言っていて。今日も『本当にそうだなぁ』って思ったので、これは近衛さんにもお裾分けします」
「……ん、ありがとう。まあ確かに、そうかもね」
「今の近衛さんの苦しみは、きっと……未来の近衛さんを助けてくれます」
「そう、だといいな」
「そうです。絶対」
「……雫は優しいな。それを知らせるために、俺の元へ来てくれたの?」
「優しいのは近衛さんの方です。普通、海外でこんなに助けてくれる人、居ないですもん。近衛さんみたいな人と付き合える女性は、きっと幸せだろうなって……思います」

 今のこの瞬間の淡い関係が永遠になるとは思っていない。けれど、口にした自分の言葉でほんの少し胸が痛い。この先この暖かな腕に守ってもらえる女性はどんなに幸せだろう。きっと自分がそこに選ばれることはないけれど、せめて自分の記憶には残しておきたい。

 せめて質感でも覚えようと肩に回された彼の腕に触れると、その腕は雫をギュッと強く抱きしめた。振り返ると、彼はとても穏やかな笑顔でこちらを見つめている。

「……隆介さん、そんな目で見られたら、私、勘違いしそうです」
「勘違い?していいよ」

 今までの自分なら言えなかったような言葉が、何故か隆介の腕の中ではスラスラと出てくる。それは異国の地の魔法か、彼の言葉の力か。熱い胸に顔を埋めると、雫は全身で隆介の体温を感じた。

◇◇◇
 
「っあ……っもう、無理……」
「こんなに悦い声をあげてるのに……雫のどこが不感症、だって?」

 シングルベッドは、背の高い隆介とふたりで横になるには少し狭い。同じ方向を向いてピッタリとくっつきながら、隆介は雫の体の強張りを少しずつ解いていく。

 柔らかさを確かめるようにつまんだり、形を理解らせるように優しくなぞったり、暗い部屋で何をされるのかわからない環境で、肌に触れる感覚を頼りに隆介の指先を追う時間が続いた。
 
「っはぁ、そんな、嘘……!」
「嘘?まさか」

 隆介は指先を蜜口の近くへあて、白く細い指先で爪弾くように触れた。先ほどまでの焦ったい感覚から一転、背筋を電撃が走っていくような快感が雫を襲う。全身が震え出し、汗が止まらない。

「ひゃっ…あぁっ!」
「ここも、柔らかく濡れて……ほら、欲しがってる」
「んっ……あっ!それ、すごい……、近衛さ……んっ」

 今までに感じてきたことのない快楽が自分を乗っ取っていくような、未知の怖さがある。自分の体はもはや人の形を留めていないような気すらする。抱きしめて欲しくて彼の方へ両手を伸ばすと、汗ばんだ腕が雫を包んだ。

「雫、隆介って呼んで」
「りゅう……すけ、さん……」
「ん、上手」
「隆介さん……好き、です」
「あぁ、俺も……好きだ」

 龍介の胸板に抱きしめられたまま、熱い欲望がぐじゅっと音を立てて内壁を掻き分けるように侵入してくる。耳をそば立てるとメリメリと音を立てていそうなほどの質量感に、一気に押し広げられた。ぎゅっと固く閉じた雫の目尻からは、涙が流れた。

「あっ…………んんんっ!」
「泣かせちゃったね、ごめん」
「大丈夫、です」

 こんな時でもこちらを気にして涙を拭ってくれる隆介に、雫は胸をときめかせた。頭を撫でたり、顔を近づけてみたり、龍介は雫が落ち着くのをゆっくりと待つ余裕がある。必死に呼吸して痛みに耐えながら、ただ相手を迎え入れて達するのを待つだけの行為とは、何もかもが違った。

「苦しいよね、ごめん」
「……少しだけ。でも、嬉しい気持ちの方が大きいから、大丈夫、です」

 紛らわせるようにしっとりとしたキスをしばらく交わしていくうちに、下腹部の苦しさやジンジンとした感覚は落ち着いてきた。抱きついているせいか、雫も全身に汗が滲むのを感じる。

「ん、悦くなってきたみたいだね」
「えっ」

 隆介は上体を起こして、雫から離れていく。少し寂しいなと思ったタイミングと時を同じくして、隆介は雫の陰核を親指で押し潰した。
 
「あっ、だめっ……今そこ、されたら……んんっ!」
「雫のナカ……奥まですごく柔らかい。襞があって包み込まれてるみたいだ」
 
 隆介の止まっていた腰がゆるりと揺れる。熱く激った隆介に突き上げられる度に、雫は我も忘れて甘い声をあげた。時々視界がチカチカと輝き、自分が呼吸を忘れていることを気付かされた。

 雫が絶頂しても、隆介は雫から簡単に離れることはない。向きを変えたり、スピードを変えたり、彼は沢山の方法で雫の全身を愛し尽くした。
 
 窓の外が白んで、ひんやりと朝の空気が部屋を包み始めた頃、何度目かの絶頂かもわからない程に蕩けた雫の頬にキスをして、隆介は部屋を出ていった。

 ◇◇◇

 疲労で寝落ちして数時間。雫の目がぼんやりと覚めても、隆介はベッドに戻ってこなかった。
 
 きっと水でも飲みに行ったままソファで横になっているか、タバコを吸っているか、そんな所のはず。それでもやけに静かだなと思った雫は、隆介から借りたシャツとパーカーを羽織り、リビングへ向かった。

 部屋に人の気配はない。薄暗い部屋を見回すと、真っ黒で存在感のあったキャリーケースと、ラップトップが消えている。

 嫌な予感のまま階段を降りると、食卓にはノートを破いたようなメモと、何年も使い込んだような黒革の腕時計が置かれていた。

 メモに書かれているのは「鍵はそのままでいい。ありがとう」の一言と、日本の携帯番号。こんな時の「ありがとう」の意味くらいは、経験の少ない雫にだって一瞬で理解できた。

「……もう、会えないんだ」

 あんなに熱く愛し合って、お互いに好きだと言っていたはずなのに、どうして。疑問が頭の中をぐるぐると回るけれど、答えはこのメモ1枚だけ。腕時計は、おそらく時間に遅れると日本に帰れないことを考えての情けだろう。

 終わりがある恋でも、せめてあと1回は顔を見て、お別れを言えたらどんなに楽だったか。一瞬の恋だったというにはあまりに思い出が多く、喉に刺さった太い骨のようにいつまでもジクジクと痛む。
 
 とはいえ雫が部屋でうだうだ考えていても、帰国時間は待ってくれない。一度自分の取っていたホテルへ戻り、チェックアウトしてウィーン国際空港へと向かった。

 移動中も、飛行機に乗ってからも、思い出すの彼のことばかりだったけれど、雫には彼がどこへ行ったのかも、どこに住んでいる人なのかもわからない。結局、海外旅行先での恋は所詮現地での魔法にすぎなかったと思うしかないと、深く反省して帰路についた。
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