ハイスペミュージシャンは女神(ミューズ)を手放さない!

何者でもないあなた

「お風呂、ありがとうございましたっ」
「いえいえ。ちゃんと温まった?」
「ふふっお陰様で。使ったことない化粧品まで使えてラッキーです」
「ん、ならよかった」

 隆介から借りたロングTシャツは、体格差のせいでワンピースのようだ。髪は乾かしたものの、細かいコスメ達はリビングに残してしまっていたため、雫は頭からバスタオルを被ったままお風呂から出てきた。

「雫。何で顔隠してんの……?」
「いや、あの、今の私はすっぴんなので……あんまり、見ないで欲しくて」
「え、やだ。見せてよ」

 隆介は楽しそうにサッとタオルを奪って、雫を抱きしめた。癖っ毛で少し跳ねたロングヘアごと抑えるように後頭部に手を添えて唇を奪うと、腰を抱いたまま雫の表情を眺めた。

「普段は童顔なんだね。イケないことしてる気分だ」
「眉も薄いので……ほんと、あんまりまじまじと見ないでくださいっ」

 雫が目元を隠すようにした手を隆介が押し除けようとすると、雫のお腹がグゥ、と大きく鳴った。一瞬に沈黙の後、ふたりで顔を見合わせて笑う。
 
「くくく……っ雫、いい時間だし、お昼食べに出ようか」
「……奇遇ですね、私もそう言おうかと思ってました」
「ぷ……っくく。よかった。急いでシャワー浴びてくるから準備してて」

 真面目を装って返事をすると、彼は初め笑いを堪えていたけれど、やがて顔をくしゃっとさせて笑った。顔を直視してしまうと、そのかっこよさにもう全ての気持ちを持って行かれてしまいそうになる。もちろんどの角度もかっこいいのだけど、昨日の他所行きの雰囲気よりも、一緒に他愛無いことを話したり、今みたいに笑ったりする素の隆介さんが好きだ。

 ソファに座って、彼の部屋をあらためて一望する。全体的に生活感のないシックな部屋は、雫の部屋と比べると寂しげにも思える。壁のコンクリートに合わせた同系色のソファにダイニングテーブルとバーチェア。土間のひんやりとした空気が寂しさを一層助長させているようで、雫は「勝手に可愛いふわふわのラグでも置いちゃいたい」など考えながら、急いでお化粧を済ませた。

 紙袋に入っていたパーカータイプのワンピースに着替える。髪はヘアアイロンを使っていると隆介を待たせてしまうかもしれないと思い、簡単に三つ編みをして頭の後ろで軽くまとめた。

◇◇◇

「ランチなのに、お腹いっぱいになる程食べちゃいました……」
「どれもなかなかだったね」
「もう晩御飯は食べられないかも……ってくらい、苦しいです」
「うちまで歩いてるうちに、少しは楽になるよ」
 
 表参道駅の近くでイタリアンを食べ、手を繋いで表参道を散歩する。隆介は今日もやはり目立っているけれど、昨日ほどではない。黒縁メガネとプルオーバー、デニムという簡単な組み合わせでも隆介の魅力は隠しきれないし見惚れてしまう。お仕事モードじゃない姿の方が、雫からすれば見慣れていて良い。
 
「あ、そうだ。そこのインテリアショップ、寄っていい?」
「あっはい!もちろん!」

 隆介は交差点のすぐそばにある大きな自動扉を指差した。スペイン発祥ブランドの日本旗艦店だ。慣れたように売り場を周り、隆介はアロマキャンドルとシーツを簡単に選んだ。

「雫、これからも時々俺の部屋へ遊びに来てくれる?」
「隆介さんが呼んでくれるなら、いつでも?」

 質問の真意が分からず疑問で答えると、隆介は嬉しそうに雫の腰を抱いて寄せ、おでこにキスをした。

「じゃ、雫のマグと、枕も買おう」
「えっ!そんな、わざわざ」
「舞い上がってる俺に、付き合ってくれるんでしょ?」

 一度近付いた距離は、簡単には縮まらない。ましてや一度半年という期間を空けてしまったせいか、心のどこかでふたりは離れることを不安に感じている。

「じゃあ、お言葉に甘えて……枕、選びます!」
「どういうのが好き?せっかくだから寝室ごと全部変えてもいいんだけど」
「ふふふ。それはやりすぎです」
「そう?雫が来たくなる部屋になるなら全然いいけどな」

 店内をゆっくり歩きながら、時折雫を見つめる隆介の目は優しく、甘い。

「隆介さんがいるなら……いい、です」
「ん?」

 自分が恥ずかしいことを言っているという自覚のある雫は、思わず歩みを止めてボソボソと話す。

「……隆介さんがいるなら、どこでもいい、です」

 都内の一等地、表参道ともなれば、平日であろうと店内の人は多い。聞かれることを覚悟して、雫は今の自分に言える最大の言葉を一生懸命に伝えた。

「こら。あんまりおじさんを揶揄わない」
「本気ですっ」

 すぐに自分をおじさんだと言って逃げようとする隆介に、雫はむすっとした……フリをした。明らかにフリであると伝わるように頬をぷくっと膨らませる。隆介はそれが嬉しかったのか、面白かったのか、片手で掴むように雫に触れた。

「おっだいぶ素が出てきたな」
「えっどういうことですか?」
「飾ったり緊張したりしてる姿より、そのままが一番可愛いってこと」
「う、あ、ありがとう……ございます」
「どういたしまして」

 頭を撫でたり、腰を掴んで歩いたり、隆介は雫が今まで出会ってきた人全員を足しても遥かにスキンシップが多い。距離感が近いというか、確かに愛を感じるけれど、ちょっぴり恥ずかしい。

「マグ、これどう?可愛くない?」
「え……っ!なにこれ、すごくかわいいです!」

 棚には、真っ白な筒に粘土で作った指輪をデザインした取手のマグが新商品として並んでいる。水色、ピンク、グリーン…とさまざまな形の宝石を留めたようなデザインが印象的だ。

「せっかくだし、雫に合わせて俺も買おうかな」
「いいですねっ!何色にしよう……。あっやっぱり黒?」
「お、俺の好きな色。やるね雫」
「流石に見てればわかりますよ。あれもこれも、隆介さんのものは全部黒いですもん」

 ヘッドフォンも、スマホも、家に停まっていた車も、洋服だって大体、黒。むしろ黒色以外を選んだらあの家の中では間違いなく目立つはず。

「隆介さんはあえて緑とか、どうですか?ハルシュタットの丘と、木の色」
「悪くないな。じゃあ……雫は水色かな」
「どうして?」
「あの湖と空と、雪化粧した山の色」
「えっ素敵です。それにしてもいいですか?」
「もちろん」
「ふふふ。……嬉しい」

 初めてのお揃いが家で使うものだなんて、なんだか大人っぽくてワクワクする。何より、自分がそこへ行く前提の空間になることが素直に嬉しい。インテリアどころか、服も髪型も今までは相手の好みに合わせていたけれど、それは必ずしも良いことではなかったのだと悟る。今までの彼に対して、それが無意識だったとしても、自分が遠慮していたり気を使っていたのだと今更ながら気づいた。こうやって普通にお願いしたり、時々は自分を貫き通しても良かったのかもしれない。

 何かを買ってあげると言われても、自分のものを自分で買わないことを嫌だなと思っていたし、わがままを言って欲しいと言われてもどう言ったらいいかわからなかった。本当に簡単なことだったんだ。気付かせてくれる隆介さんはやっぱり私よりも大人だ。沢山の経験をしてるんだろうなと少し寂しくもなるけれど、そこは仕方ない。

「……ずく……雫」

 考え事をしている間に会計は終わっていて、ぼーっとした顔を覗き込むように龍介がこちらを見つめていた。購入品は、どうやら家まで届けてもらえるらしい。

「何?他の男のことでも考えてた?」
「あっいえ、隆介さんってすごいなって、感動してました」
「ふ……っあの顔は嘘だな」
「嘘じゃないですよっ。簡単なことなのに気付いてなかったこと、教えてくれて感謝してたんです」
「そう。じゃあ今日はそういうことにしておこうか」
「もう!本当にそう思ってたのに!」

 腕をペシペシと叩くように抗議すると、痛くもないねと笑いながら、隆介は雫の手を取った。
 
「元気なうちの子が逃げると困るから、もう今日はこのままだな」
「……はーいっ」

 明るい時間の隆介の顔にも、若干慣れてきたのか、雫は普段友人と遊ぶ時のテンションとほとんど変わらない明るさで接することができた。そこからはそのまま帰ると思っていたけれど、洋服を見たり、家具を見たり、カフェでコーヒーを買って散歩したり。たくさんの寄り道を楽しんでいると、時間が過ぎるのはあっという間だった。
 
 ◇◇◇

「あんなにお腹いっぱいだって言ったのに、もう夕食の時間ですね」
「お腹の具合はどう?空いてる?」
「うーん、すっごく食べたい!って訳ではないかな……っていうくらいです」
「じゃあ適当につまみでも買って、うちで晩酌。一杯付き合ってよ」
「でも私明日仕事で……」

 本心はこのまま一緒にいたいし、この楽しい空気を終わらせたくない。けれど、今夜も泊まることになっては彼の仕事にも支障が出そうで、雫はやんわりとお断りしようと考えていた。

「その為に今日色々買って回ったんだし……ね?」

 まさか彼の家から出勤するなんて。今まで何度か先輩が同じ服で出勤するところを見てはいるけれど、自分もやる可能性が浮上するなんて。どうしても恥ずかしさが勝ってしまう。

「じゃあ、ひとまずお買い物にはお付き合いしますっ」
「ん、了解」

 表参道の交差点を越えて、家の方へ歩いて行く途中で、白地に青文字のおしゃれなスーパーへと案内された。見たことのない野菜や、冷凍のパン生地など、珍しいものがたくさん並んでいた。

「なにここ……スーパーなのに遊園地みたいですね」
「全然料理しないからよくわかんないんだけど、面白いってこと?」
「っ……はい!流石にちょっと割高ではありますけど……ロマネスコとかズッキーニが中央に並んでるのなんて、滅多に見ないです。トマトもなんだか種類が豊富だし、あっ赤玉ネギも……?すごい!」

 普段雫が行くスーパーでは見かけないような、派手な高級食材が所狭しと並んでいる。よく見ると日本と英語の両方の表記があったり、購入している人も半分くらいは海外の方だったり、どうやら一般のスーパーとは勝手が違う店みたい。とはいえ、ここで普通に買い物してる隆介さんって一体何者なんだろう……?本当はスーパーマンでした!って言われても、私は信じちゃうかもしれない。
 
「なんか食べたいものあったら、適当に選んでいいよ?俺、本当に全然わかんないし」
「あっじゃあ、パプリカとズッキーニと……トマトだけ買って帰ってもいいですか?グリルするだけで美味しいし、さっき選んでたチーズとも合うと思うんです」
「ん、調理が必要なものは雫に任せるよ」

 彼の秘密はもうこれ以上気にしないと思えば思うほど、時々湧く疑問が頭をもたげる。今すぐ全てを知る必要なんてないはずなのに、もっと知りたいと思ってしまう自分もいる。ゆくゆく知っていく方が楽しいこともあると自分に言い聞かせて、雫は焼きたてのパンのいい香りがする食品コーナーを歩いている隆介を追いかけた。

 ◇◇◇

「お会計8637円です。ってあら……ついに奥様と一緒なの?お似合いね」
「ああ、奥さんじゃなくて恋人ですよ。支払いはカード、一括で」
「はい、じゃあカードはそちらにタッチしてくださいね。彼女さん、結構若いんじゃない?ちゃんと捕まえておきなさいよ。年齢重ねるごとに出会いなんてなくなるんだから」
「ふふっ。アドバイス、胸に刻んでおきます」
 
 馴染みの店員なのか、自分の母ほどの年齢の女性店員と隆介は親しげだ。隆介が敬語で話しているのも新鮮で、思わず聞き耳を立ててしまう。

「はいっ、じゃあこちらレシートです。また近々、連れてらっしゃいね」
「ええ、また」

 隆介が手を振るところを見ると、相当仲がいいのだろう。今日一日いろんなお店を回ったけれど、こんなに親しげに話している姿は見なかった。雫がぺこりと頭を下げると、女性は笑顔で手をふり返した。

「今の人、俺が上京してからずっとあそこで働いてて。時々話すんだけど、俺が結婚したと思ったみたい」
「えっそうなんですか」
「『ついに奥様と一緒なの?』って言ってたよ。本当に雫が俺の奥さんになればいいんだけど」
「もう少し、先の話ですね」
「お、その気はなくはない、と」
「そういう未来も、あったらいいな……とは、思ってます」
 
 ハハハと笑いながら歩く隆介は、やけにご機嫌な様子だ。結構な量の食品の入った紙袋でも重そうな顔ひとつ見せず、昼に出た部屋へと帰ってきた。エレベーターの鍵にはまだ慣れない。

「昨日も思ったんですけど、すごい作りですよね、ここ」
「確かにそうかも。防犯とかあんまり考えずに、かっこよさだけで建てちゃったから」
「建て、ちゃった……?」
「うん。もうすぐ築5年になるね」

 そういえば、オフィス兼事務所だとは言っていたけれど、真っ直ぐ4階へしか上がっていないから実感もないままだし、あまり深く考えていなかった。このフロアにあるお仕事っぽいアイテムはパソコンとヘッドホンだけだし、2、3階がお仕事スペースなのかもしれない。

「隆介さん、本当に何者……?実は音楽業界の裏ボス、的な……?」
「っははは!こんな若造が裏ボスなわけないって。どちらかというと、お笑いでいうところの一発屋……みたいなものだよ」

 「あーおかしい」と涙を流しながら笑う隆介は、笑っているのにどこか寂しげな背中をしていた。この人は、本当にあの時「無意味に感じる」と落ち込んでいた隆介だろうか。

 別にどんな仕事をしているのか知りたいとか、真面目に話してほしいとか、そういうことじゃないけれど、どことなく不安定な感じがする。

「なんか隆介さん、変。……空元気?っていうか。なんか寂しそうな……気がします」
「……え?」

 彼の触れられたくないところをついてしまったのか、一瞬、何の音も聞こえない静かな時間が広がる。まだ照明を着けておらず、薄暗い室内。窓に反射している看板の光だけが、私たちを照らしている。

「なんで、雫にはわかるんだろうな」
「……」
「誰も気付かなかったのに」

 紙袋を静かにアイランドキッチンの中央に置いて、隆介は食材を取り出しながら言葉を続けた。

「俺はさ……自分の中から生まれるメロディーを、売るための"音楽"にするんだ。嬉しいことも悲しいことも全部メロディーにして、売れるように書き換えるのが、俺の仕事。俺は自分の中にあるものを使ってしか仕事ができないから……俺の経験も俺の記憶も、"誰か"のために使ってしまう。その誰かに、消耗されるために。その誰かは、俺のことなんて何も知らないはずなのに」

 バカにするような呆れるような、鼻で軽く笑う音がする。自らを嘲笑するような笑顔は、見ていて痛々しい。泣いているようには見えないけれど、何かを諦めたような目で酷く遠くを見つめている。

「いつも……そうなんだ。俺だけの記憶だったものを切り貼りして売り物にする。それが嫌になって離れても、結局俺はそのやり方しかしてこなかったから、そのやり方でしか生きていけない。……まあ、作れたとしても当たらなければ、次の仕事はもう来ないんだけど」

 いつの間にか彼の手は止まっていて、ただ、俯いていた。きっと、常に孤独を胸に抱えながらも、雫の前では明るく振る舞ってくれていたのだろう。

「話してくれて、嬉しいです」

 昼には大きく見えていた背中が、今はとても小さく見えた。丸くなった背中を抱きしめて、彼の静かな鼓動を聞くようにそっと耳を当てた。近くにいても孤独を感じたり、不安になることは自分にだってある。自信と才能に溢れ、こんなにも多くのものを持っている隆介の隣にいることで、自分の平凡さが馬鹿馬鹿しく残念で釣り合わないと思う自分もいる。自分の体温が少しでも隆介に伝わって、彼の心にこびりついた寂しさが薄れてくれたらと願った。

「雫は時々鋭くて、少し怖いな」
「あの、取り繕ったり、無理して笑わなくていいから、そのまま聞いてください」

 隆介の冷えた指先が、雫がそこにいることを確かめるようにそっと触れる。

「昨日、実は私もちょっとだけ、怖かったんです。隆介さんすごく素敵で、なんだか別の世界の人みたいで。私の知ってる隆介さんからは遠い感じがして。だから、今日みたいな……飾っていない隆介さんが、私は好きです」
「飾ってない俺、か。……俺はそんな雫との記憶も、経験も、音楽にしてしまうかもしれないけど」
「いちばんに聞かせてくれたら、その瞬間だけは私と隆介さんのものだから……許します。だから、ふたりでいる時だけは、そのままでいてほしいです。オーストリアにいた時みたいに」

 自分が選ぶ側ではないことくらい自覚しているのに、「許す」だなんて偉そうだったかな。でも、今の隆介さんは仕事をしている時の自分と、そうじゃない自分の境界線がぼやけているせいで苦しんでいるような……そんな気がした。お仕事モードの隆介さんはカッコ良すぎて緊張しちゃうので、と付け加えると、隆介ははぁっと大きく息を吸い込んだ。

「ありがとう、雫」

 振り向いてこちらを見ているのは、眉を限界まで下げた子犬のような顔の隆介。30cm以上、下の方にある雫の肩口に、龍介の彫刻のような顔が沈んでいく。肩がじんわりと熱い。雫は丸くなった隆介の背中を、いつまでも静かに撫でた。
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