生きたくても生きられない君と生きたくないのに生かされる僕の一年間ノート

おわりに

おわりに 

あの子が火葬されてお空に向かう日は、皮肉にも僕が去年死を救われた5月1日、だった。

僕を精神科に尋ねに来てくれたとき、あの子のお母さんに、僕の存在が知れた。
その前から知っていたらしいけど、僕らの関係を深く話したのは、その頃らしい。 

僕も火葬場に招かれ、外出許可と、ノートの所有権を半ば無理矢理、主治医からもらった。

思い返せば、僕は3月30日、あの子の書いたページを多く含めたノートを他の患者に破られ、大事なものが裂かれたことでプチンと切れ、殴りかかってしまった。 

2週間保護室、つまり隔離室、と言われ、大人しくカクリされていたが、4月10日に出てノートを書こうと思っていたが、それを主治医が断りなく読んだ上に心情が乱れるから、と取り上げられ、感情が溢れて暴れ、また2週間カクられた。 

今度はノートが取り上げられて、モニターで監視されているのに暴れ、2週間、4月24日になんとか出たが、1週間の閉鎖病棟観察、と言われた。 

1週間だと、5月1日で、あの子といつも会うのは、月終わりの日。つまり4月30日。 

1日だけ勘弁してくれ、とノートを取り上げた主治医に媚び、4月30日に開放病棟に移り、あの子に会いに行った、という訳だ。

そんなことを考えながら火葬場に着いた。 

「やっと会えた!来てくださってありがとう。娘がとてもお世話になりました。」 

そのひとは、あの子の母ということだった。 

「いえいえ、僕が救われていたんですよ。」と言う僕の言葉が聞こえていないかのように、

「娘は、幼い頃から病に見舞われ、治ったかと思えば再発し、最初は笑顔も見えていましたが、病が進み元気はなくなり、ネガティブな言葉で、私に当たり散らすようになりました。テレビで出ている病気の子どものように、親、の笑顔のために頑張ってほしい、とも思いませんでした。ただ、娘が楽しんで毎日を、息の続く限り喜び溢れる人生にしてあげたい、と思っていました。でも、私は手を替え品を替え、なのに無力でした。そこへ、あなたが現れたのです。」 
「は、はい。」 
「あなたを元気にさせたい!それが娘の原動力になり、笑顔もまた見られ、活気も出て、前向きに治療と向き合う姿は、涙が出ました。お母さん、ありがとう、と言ってくれる余裕が出来て、親として、あなたには感謝しかありません。娘から話には聞いていましたが、あなたにはどうか生きてほしい、と、破れたノートは娘がテープを貼り直しました。」 
「続き、読みました。僕のバカさがよく身に染みました。僕も娘さんには、感謝です。」 
「最後にあなたに手紙を書いていて、どうか受け取ってください。娘の最後の遺言です。」 
「わかりました。確かに受け取りました。」 
ーー
『やほー!あなたがこれを読んでいるときは、5月1日、私の火葬かな?でも私が実際に死んじゃったのは、もうちょっと前だと思う。遺体を残してもらって。3月中旬の余命宣告は4月末まで生きられたら良い方。で、体力も落ちてきたから4月のメッセージは、緩和ケアに入ってそのうち意識が朦朧としてくるだろうからって、先に書いたよ!この手紙と、あと5月1日に火葬、ってお母さんに頼んだのも私。ひとつ、教えておくと、あのあなたより私は心が弱すぎる人間だった。だからあなたの代わりに、私がなったの。最後に言いたいことは、私の代わりにあなたには生きてほしい。それが遺言です。いつだったっけ、律儀なあなたなら、守ってくれるよね!もうひとつネタバラシすると、気づいてるかはわからないけど、前の月の日のあなたの文章に、次の月の日の私が、答えを書いています。気になる?じゃあ、どうぞ!最後のお別れに、もう確認してみて!私と出逢ってくれて、ありがとう!あなたが健やかに、幸せに生きられることを、お空から見守っているね!あなたが老いて、寿命が来るまで、私は天国で待ってるから!〜私の愛したあなたへ〜』 
ーー 
「楽しい遺言だな……。ありがとう。」 

いろいろな思いが巡り、僕は涙が止まらなかった。
火葬されるときに、棺にノートと、それと手紙も入れようか迷ったけれど、これから先も、ずっと僕が持っていることにした。

だって僕はこれから先も、あの子がくれたノートと手紙と写真と、一緒に生きるから……。
                                     完 
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