夫に離婚を切り出したら、物語の主人公の継母になりました

10 訓練場

「ユーリ、他にどこか見て回りたいところはあるか?」
「他……」

 その時、フリーデは風の唸りのようなものを聞いて、足を止めた。
 ギュスターブがユーリとつないでいた手をほどくと、フリーデたちを背中に庇い、降ってきた矢を掴み取った。

 ――刺客!?

 矢の軌道は明らかに、ユーリを狙っていた。
 まさか皇帝が城に襲撃をかけてきたのか、とフリーデは顔を青ざめさせた。

 ――原作ではこんなこと……。

 フリーデは次の攻撃から守ろうと、ユーリの頭を抱えるように抱きしめた。

「……ふ、フリーデ様?」
「だ、大丈夫。大丈夫だから……私が守って」

 しかし恐怖のあまり歯の根が合わず、声が震えてしまう。

「落ち着け、フリーデ」

 ギュスターブに背中をさすられ、顔を上げた。

「ぎ、ギュスターブ様、刺客です。逃げないとっ」
「違う。うちの馬鹿どもの仕業だ」
「へ?」

 ギュスターブは掴み取った矢の鏃に刻印された紋章を見せる。それはグリシール家の紋章である、伝説上の魔獣、グリフィンを意匠化したもの。

 ――それじゃ、私の早とちり?

 フリーデは全身から力を抜き、胸を撫で下ろした。

「顔色が悪いぞ。城に戻ろう」
「へ、平気です。ただびっくりしただけなので。ぜんぜん……」

 弓を構えた兵士が駆け寄ってくる。ギュスターブはその顔を思いっきり殴り付けた。
 兵士は驚くほど吹き飛んだ。

「何をしている! 俺がいなければ、この矢が当たっていたかもしれないんだぞっ!」
「も、申し訳ございません! 高所に矢を打ち込む訓練の際に強い風が吹いて……」

 ユーリが固く握り締めたギュスターブの手にすがる。

「ユーリ?」
「ギュスターブ様のおかげで、僕は大丈夫ですから。許して上げて下さい!」

 ユーリが、ギュスターブに縋るような目を向けた。

「本当に申し訳ございません!」

 兵士が土下座する。

「もういい……。訓練に戻れ」
「はっ!」

 兵士は逃げるように戻っていった。

 ――人騒がせなんだから!

 ユーリが、フリーデにも手を差し伸べてくれる。

「大丈夫ですか、フリーデ様。とても震えていらっしゃいましたけど。立てますか?」
「恥ずかしいところ見せちゃったわね」
「守ってくれて嬉しかったです」
「フリーデ、兵たちには俺からあとで厳しく言っておくから許してやってくれ」

 ギュスターブから頭を下げられ、フリーデは慌ててしまう。

「顔を上げてください。大丈夫ですのでっ」
「ギュスターブ様、こちらでは訓練もされてるんですか? 見学してもいいですか?」
「駄目よ、ユーリ。今みたいに危険な目に合うかもしれないのよ? もう城に戻ったほうが……」
「少しでいいですから、お願いします、フリーデ様。ギュスターブ様」

 ユーリの言葉には切実さが滲んでいた。

「俺は構わないが」

 ギュスターブがちらりと、フリーデを見てくる。

「どうして見たいの?」
「……きょ、興味があって」
「でも今みたいに危ない目に遭うかもしれないのよ?」
「危ないように遠くで見てますからっ」

 ――男の子だから、訓練っていうものに興味があるのかな。

 それとも、主人公としての血が疼いているのか。

「いいわ。でも十分、気を付けてね。ギュスターブ様もユーリのこと……」

 残念ながら、飛んでくる矢を受け止めるような芸当はフリーデにはできない。

「任せろ」
「フリーデ様、ありがとうございますっ」

 訓練場へ近づくと、男たちの声が聞こえてくる。
 薄着姿や、上半身裸の男たちが様々な武器をつかって稽古に励み、また別の場所では馬術を競い合っていたり、弓の練習をしていたり、数百人の男たちがしのぎを削っていた。

 ――す、すごいわね……。

 まるで映画の世界だ。

「これは伯爵様! 稽古をつけてください!」

 兵士の一人が駆け寄ってくる。

「今日は無理だ。妻の付き添いで来ただけだからな」
「え、妻……?」

 男の目がフリーデのほうを向くや、目をかっと見開く。

「えええええええ! お、奥様!?」
「!!?」

 男の絶叫で、兵士たちは稽古の手を止め、口々に「奥様だって?」「え、奥様が見に来たのか?」「うわ、奥様はじめてみた。実在したのかぁ……」と口々に囁きあう。

 ――たしかに訓練場に来るのははじめてだけど。

 次から次へと兵士たちが、パンダ見物の客のように集まってくる。

 ――それにしても、みんな、大きすぎるんだけど!?

 軒並み百七十五センチオーバー、中には二メートル近い兵士までいる。
 まるで巨大な壁がフリーデをぺしゃんこにしようと迫ってくるような気さえして、身動きが取れなくなってしまう。

「奥様、お美しい……見ろよ、あの肌。白くてなめらかで舞台女優みたいだぜ」
「なにが舞台女優だ。お前が見たことのある舞台なんざ、酒場の歌い手だろ?」
「髪までもつやつやだ。さすがは帝都うまれのお嬢さんだ!
「腰、ほっせー。伯爵が抱きしめたら折れるんじゃないか?」

 フリーデは言葉を失い、俯く。

「お前たち、奥様がおびえているだろう。下がれ」

 そこに、通りのいい冷静な声が響く。
 兵士たちの人垣が割れ、長身痩躯の男が姿を見せた。
 彼の顔には見覚えがあった。

 背中の半ばまで伸ばした金髪を後ろでくくり、顔立ちには女性的な柔和さを感じさせながらも、がっしりとした体躯で男性だと分かる。
 右目には眼帯をし、唯一開いた左目は鮮やかな緑。

『凍月の刃』において皇帝軍からギュスターブとユーリを逃がすため、己の命も省みず、最後まで踏みとどまり、命を散らした武人。
 名前はたしか。

「スピノザ」

 ギュスターブに呼ばれ、スピノザはうやうやしく頭を下げた。

 ――そう、スピノザ・カルラン!

「奥様、不調法者が多く申し訳ございません」
「いえ、少し驚いただけですので」

 フリーデは苦笑まじりに首を横に振った。

「こうして直接、声をおかけするのは初めてのことなります。スピノザ・カルランと申します。戦時には伯爵様の副官を務めさせていただいております」
「そうなのですね。ギュスターブ様がいつもお世話になっております」
「世話になっているのでは我々のほうですから。……そちらは?」

 スピノザが、ユーリに気付く。

「俺の恩人の子で、ユーリだ」
「は、はじめまして……ユーリと言います」

 ユーリは緊張のせいかやや声を上擦らせつつ、頭を下げる。

「はじめまして。それで今日はどうなさったのですか?」
「ユーリが訓練を見学したいと言ってな。それで立ち寄ったんだ」
「分かりました。――全員、戻れっ」

 スピノザの指示で、兵士たちは駆け足で訓練に戻っていく。

「ユーリはそれで、何を見たいんですか?」
「色々なものを」

 というわけで、訓練を一通り見て回る。

「ギュスターブ様もみんなにまじって訓練をされるんですか?」

 フリーデはふと疑問に思って聞いてみた。

「一人で剣を振ったりは毎日している。時間があればみなと打ち合ったりすることが、最近は時間がなかなか取れなくてご無沙汰だな」
「奥様、ご安心ください。伯爵様は荒くれ者たちを束ねられるだけの強さと度胸をお持ちです。稽古をつけていただくたび、己の未熟さを思い知りますよ」

 戦闘狂と言われるくらいだ。

「……ユーリ、どうかした?」

 ユーリは何かさっきからモジモジしている。トイレだろうか。

「ギュスターブ様! 僕も皆さんと一緒に訓練をさせてもらえませんかっ?」
「な、なにを言ってるの!?」

 フリーデは耳を疑ってしまう。

「なぜだ」
「僕も体を鍛えて、強くなりたいんです。僕は体も小さいし、力も弱い。でも僕はこのままでは嫌なんです。僕、強くなって、フリーデ様を守れるような男になりたいんですっ!」
「え」

 まさかの理由に、フリーデは虚を突かれて、思わず声をこぼす。

「ギュスターブ様、お願いします!」

 フリーデはユーリの肩ごしに、ギュスターブに首を横に振る。

 ――まだ十歳なんだから。剣の稽古なんていくらなんでも早すぎるわ。せめてもっと大人になってからで……。

 乗馬の稽古とは訳がちがうのだから。

「スピノザはどう思う?」
「そうですね。本気なら構いません。うちには騎士見習いの少年もいますから」
「本気ですっ」

 ユーリはギュスターブだけでなく、スピノザにも力強く訴える。

「では、その覚悟が本気か、テストをさせてください。明日から朝六時にここに来るように。できますか?」
「分かりました」
「駄目です! 訓練と言っても怪我をするかもしれないの。あなたはまだ子どもなんだから……」

 何とか意見を翻そうとユーリを説得しようとするが、ふだんは素直なはずなのに、こればかりは首を縦には振ってはくれない。それどころか申し訳なさそうな顔をしながらも、「お願いします。せめてテストだけでも受けさせてください」と懇願めいた上目遣いを見せるのだ。
 どうやらユーリは本気らしい。

「フリーデ。何かを守りたいと思うことはおかしいことじゃない。たとえ子どもであっても。なにも兵士になろうというわけじゃない」
「それは、そうですけど……」

 ギュスターブがユーリ側につく。

 ――たしかに、原作を知っているとはいえ、さっきの流れ矢のように不測の事態は起こってしまうもの。特にこの世界にはユーリの命を奪いたいと考えてる人間が明確に存在することを考えると……。

 フリーデは溜息をこぼす。

「分かりました。でもユーリ、テストに不合格したら諦めるのよ」
「ありがとうございますっ」
「じゃあ、今日はこのあたりで。城に戻りましょう」
「明日、待っていますよ。時間厳守です」
「はい!」

 ユーリはスピノザに礼儀正しく頭を下げた。
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