東風吹かば
春分の日も過ぎてから雪が降るなんて。
快速電車の窓から見える白い景色に眉を顰めた。
開花したばかりの梅の枝も、新興住宅地の庭で咲き誇るミモザも、今朝はモノクロの風景の一部に成り下がっている。
どこまでも続く季節外れの白い白い世界に、軽く眩暈を覚えた。
すっかり外すタイミングを逃したマスクの下、小さくため息をつく。
雪国育ちとはいえ、これは油断もするでしょう。確か昨日まで花粉警報がでていたはずなのに。
先週片付けたスノーブーツを出すのも億劫でスニーカーを履いたのが間違いだった。爪先にじんわりと泥水が滲み、軽い不快感を伴う程になっていた。
1番出口からすぐの地下街を抜け、5分後には長年通い慣れた職場に到着した。
ロッカーにコートを仕舞うと、胸元に社名の入った上着を羽織る。肩下まで伸びた髪をざっくり一つにまとめると、どこにでもいるOLの出来上がりだ。
窓際に設置されたコーヒーメーカーをセットしているふりをしながら、表通りを眺める。
メガネをかけた初老の男性、全身ショッキングピンクのマダム、そして、黒いバッグを肩にかけ、颯爽と歩く男性。
その男が、ふ、とこちらを見上げた。
反射的に右手を振り掛け、止めた。
ぎこちない動きの私を見て、男が目を細め笑った。
たったそれだけで、慣れ親しんだ声まで聞こえてきそうだった。
ああ、だめだ。
封印したはずの気持ちが、あっという間に溢れ出してしまう。
「やっぱり、好きだなぁ」
人混みに紛れていく後ろ姿をいつまでも目で追いながら、自嘲気味な笑いが込み上げた。
あの人の左薬指に、誰かと交わされた永遠の約束があることに気付いた時から。
今から帰るとメールを送るその背中を見る度に。
ダメだとわかっているのに、次の約束を期待してしまう自分を抑えられなかった。
この先にゴールなんてないとわかっているのに、この列車から飛び降りることも出来ないで、ズルズルとしがみついてしまう自分が嫌になる。
何度さよならを決意しても、あの笑顔に、あの大きな手のひらに触れられると、あっという間に懐柔されてしまう。
体の内側からじんと熱い幸せを感じながら、それでも心のどこかは冷え切っていた。愛してると囁かれても、きつく抱かれているはずなのに、惨めな気持ちになるのは何故だろう。
答えはもう、わかっているのに。
痛いくらいわかっているのに。

私の視線を邪魔するように、ふわり、ふわり、小さな雪片が次々と舞い落ちてくる。
目の前の高層ビルも、通りを歩く人も、見る間に白く塗りつぶされていく。
もっともっと雪が降ればいい。
こんな私もキレイに隠すくらい。
好きな誰かを想って泣く夜がなくなるくらい、ただ静かで、真っ白な世界になればいい。

ーーでも、私は知っている。
雪解け後の泥濘んだ地面を。
どろどろと足を取られるくらいに、不安定な世界を。
そこから芽吹いた感情は、勢いよく空へと向かっていくことを。
もうすぐ、春が来る。



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