眠れる海の人魚姫〜政略結婚のはずが、御曹司の一途な執着愛に絡め取られました〜
 今度こそ部室を出ていく美雨の背中に、嶺人は声を投げた。
『西城美雨。今度、水族館のチケットが取れたら譲ってやる』

 美雨は振り返り、ちらりと微笑んで『楽しみにしています』と言った。期待しているような、でも諦めてしまっているような、もの寂しい色の声だった。
 だが嶺人は本気だった。父親同士の縁を繋いで、苦手な美波にも頭を下げて、美雨の家庭教師の座を勝ち得た。
 美雨は部室での出会いなどすっかり忘れたようで素直に勉学に励んでいた。その隣で良きお兄さんの仮面を被り、嶺人は美雨のそばにいた。時間ならいくらでもかけるつもりで。そのうちに自分を振り向いてくれればいいと考えていたし、振り向かせる自信もあった。
 ――それなのに。

(美雨の足を奪ったのは、俺だ。まさか俺を庇うとは思わなかった)

 美雨が自分に好意を抱き始めているのは悟っていたが、あれほど躊躇いなく嶺人の前に身を投げ出せるとは思いもしなかった。美雨の性格を見誤っていた。お人好しというか、なんというべきか。

『嶺人くんが、無事でよかった』

 その他に何も望まないような、純真な笑顔。あのときどれほど狂おしく美雨を愛おしいと思ったかきっと誰にもわからないだろう。
 嶺人の運命はあの瞬間に決まった。いや、自ら定めた。
 必ず美雨の愛を手に入れると。
 贖罪などと一括りに片付けてしまえるほど、この慕情は軽くない。

 役員室の窓の向こう、薄灰色の空の下を、一羽の燕がすうっと渡っていく。ビル群に紛れそうな鳥影に目を細める嶺人の背後で、櫻井がタブレットを持ち上げた。

「岬元帥の誕生祝いですか。これには美雨嬢も参加されるのですよね?」
「その予定だ。俺たちの結婚は公には未公表だが、ある程度は知らしめておきたいからな。ハッ、俺が隣にいれば、美雨に近寄る身の程知らずの男どももいなくなるだろうよ」

 しかめ面の嶺人に櫻井が苦笑する。そしてタブレットの画面に指を滑らせ、もう一つのファイルを呼び出した。

「――では、こちらの『計画』も予定通りに?」

 向けられた画面に嶺人の顔から表情が消える。冷徹に底光る目を見開いた。

「当然だ。失敗は許さない」
「かしこまりました」

 櫻井が折目正しく礼をして役員室から出ていく。
 後には険しい顔つきの嶺人だけが残された。
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