求婚書を返却してすみません!

第6話 デートだと思われている?

 それからスティグは、私の敬語が取れるまで、毎日のようにイーリィ伯爵邸にやってきた。

「待ってくれると言ったじゃないですか」
「大人しくとは言っていない」
「それは屁理屈です」

 お陰で随分と砕けた口調になっていた。

「それよりも今日はどこへ行こうか」
「え? 今日も出かけるんですか?」
「その方が早いって気づいたんだ」

 私は申し訳なくて俯いた。

 スティグが求めているのは、カティアだ。敬語が取れれば、元のカティアに戻ると思っている。今は具合が悪いと言って誤魔化しているけれど、それもいつまでもつか……。

 どんなにスティグが頑張っても、私はカティアじゃない。カティアにもなれない。それでも思ってしまう。私はどれだけスティグのカティアに近づいたんだろう、と。

 求婚書を返した罪悪感とはまた違うものに、私は胸を痛めた。そしてスティグに、こんなにも求められるカティアを、ほんの少し羨ましく思った。

「今日は少し遠くに行こうと思うんだ」
「いつもの街ではないんですか? まだすべて見て回っていませんよ」

 スティグに連れられて、初めて邸宅の外に出たのは二週間前のこと。その時は、邸宅に近い場所を一時間くらい散策した程度の軽いものだった。

 私が余程興味津々だったからなのか、それを皮切りに、スティグはよく外に連れ出してくれた。

 だって、異世界だよ。色々見て回りたい!

 しかし、お父様もスティグが同伴でないと、外出を許可してくれなかったため、自然とこういう流れができてしまった。

 多分、未だに求婚書を受け取らないのが原因だろう。
 スティグは、私が待ってほしいと言ったから、納得できているが、お父様は違う。

 あれから送りつけられてはいないけれど、それでもお父様は心配なのだ。私とスティグの仲が悪くなるのを。

『スティグが傍にいれば、私も安心するんだ』

 そう言われてしまうと断れない。さらにいうと、これだけ求婚書を返却したのだ。もう嫁の貰い手がいない、と思われている可能性もあった。だから余計に、スティグとの仲が気になるのだろう。

 まぁ、私も満更でもないけれど……。

 ただ、ただね。スティグが来る度に、興味津々なお母様と、「さっさと返事をすればいいのに」と催促するお兄様が嫌なのだ。あと、見送りに出てくるメイドたちの温かな視線も恥ずかしい。

 それでもスティグの誘いを断らないのは、異世界の街並みを見たい欲求が勝っていたからだろう。

「馬車を使いたいんだ」
「馬車……ですか」
「嫌か?」

 正直嫌じゃないし、乗ってみたかった。

 私が首を横に振ると、そのままスティグと共に玄関を出た。

 すでに何度も見たことがあるスティグの馬車は、紺色の車体をしている。派手さのない、シックな馬車。

 先にスティグが乗り込むのを私はじっと見つめた。カティアは伯爵令嬢なのだから、馬車に乗ったことは数え切れないほどあるだろう。そんな私が失敗するわけにはいかない。

 先に入ったスティグが手を差し伸べてきた。私はその上に右手を置き、左手でスカートの裾を掴む。ここ三週間で、この所作にもだいぶ慣れてきたと思う。

 車内に入り、私は進路方向とは逆の席へ行こうとした。けれど、掴んでいた右手を引っ張られ、スティグの横、つまり上座に座らされた。

「ス、スティグ!?」

 私が慌てて名前を呼ぶと、スティグは嬉しそうに額にキスをする。それに驚いて身を引こうとするが、腰をがっしり掴まれてできなかった。

 これが最近の悩みだった。

 一緒に出掛けるようになってから。いや、初めて私がスティグの名前を呼んでからなのかもしれない。スティグはその度、こうして、私のどこかに必ずキスをする。

 さっきのように、咄嗟に出てもお構いなしにだ。本当はやめてほしくて仕方がないのだが、これほどの喜びよう。

 カティアはあまりスティグを名前で呼んであげなかったのかな。それとも今の私と同じようにされて、段々呼びたくなくなったとか……。
 うん。こっちの方が濃厚かもしれない。だって、あまりにも自然にやるのだから、きっとそうなのだろう。


 ***


「潮の香りがしますね。海が近くにあるんですか?」

 馬車を降りると、懐かしい空気に私は嬉しくなった。転生前にも感じた、潮の香り。たったそれだけなのに、私は自分でも信じられないくらい浮かれた。それはもう、はしゃいでいると言った方がいい。

 だから改めて感じてしまう。知らないものだらけの異世界は、思った以上に私を心細くさせていた、ということに。

 そんな姿にスティグは始め、戸惑った表情をした。けれど、あまりにも私がはしゃぐからか、次第に表情を緩ませていった。

「カティアは海が好きなのか?」
「そう、ですね。この潮の香りが何とも言えなくて」

 さすがに懐かしいとは言えなかった。

「そうか。今日は港の方に行こうと思っていたから、気に入ってもらえて良かった。近くまで馬車を使うこともできるが……」
「いいえ、歩いていきましょう。早く海を見たいですが、どんな街なのか知りたいです」

 私はスティグの右腕を掴みながら言った。左手を、彼の右手に乗せながら。

「……分かった。毎度のことだが、俺から離れるな」
「はい」

 離れません、と私は笑顔で答える。もしも今ここで迷子になったら、私は二度とイーリィ伯爵邸に帰れない。
 だから、今日もしっかりとスティグの右手を握った。すると、スティグも慣れた調子で握り返してくれる。

 最初の頃は、やはり貴族には手を繋ぐ習慣がないのか、手を握っただけでスティグは驚いていた。エスコートで触れるのは大丈夫なのに? と若干不服に思ったが。

 しかし、適応力があるのか、すぐに慣れてくれたのは有り難かった。何しろ、これが一番適していたからだ。離れない方法としては。

「それで、どこから見たい?」
「そうですね。あそこのお店を見てもいいですか?」
「ガラス工房か」
「はい。ここの港町がどういうものかは知りませんが、どこも色々な人たちが集まってくる場所じゃないですか。そういう所は文化が混ざり合って、相乗効果を生みます。つまり、人が多く集まる場所には、良い物ができるということです」

 さぁ行きますよ、と私は自慢げに言い、足を踏み出した。しかし、左手が前に行かない。私は催促するように左手を動かす。すると、後ろから不満げな声が聞こえてきた。

「良い物と一緒に、悪い者も入ってくるぞ」
「それは分かっています。十分気をつけますから、一緒に行っていただけませんか? 私一人では行けないので」
「勿論、一人でなんて、行かせるわけにはいかないだろう!」

 どうしたんだろう。

 スティグは突然、私の横を通り越す勢いで歩き出した。
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