王宮に薬を届けに行ったなら
5.その悲しみは
カザヤ様に言われた通り、仕事終わりに王宮へと向かった。
カザヤ様の部屋へ通じる通りは、衛兵たちに話がすでに通っているのか、私が現れても止められることなくスムーズに通された。
しかし、奥へ行くにつれていつもよりも警備は手厚くなっている。
「凄い数ね……」
まぁ、当然だよね。
あの夜、襲撃もあったし、なによりカザヤ様は国王になったんだから……。
カザヤ様の部屋の前まで行くと、逆に多くの衛兵の目が気になって早く扉が開かないかと妙な焦りが生まれたほどだ。
「ラナでございます」
そう声をかけると扉が開いた。現れたのはバルガだ。
「バルガ様…?」
てっきりカザヤ様が出てくるのだと思っていたので、少し拍子抜けしてしまった。
「どうぞ」
バルガは体をよけて通してくれる。
「失礼致します」
あまり表情の喜怒哀楽が見えないので、私はバルガが少し苦手だ。どう会話をしていいかわからなくなる。
バルガに言葉少な気に中へ通されると、リビングの奥の書斎からカザヤ様が顔を出した。
「あぁ、もうそんな時間か。ラナ、そこで座って待っていてくれ」
カザヤ様の柔らかい笑みに、いつも布団の中から微笑みかけてくれていたカザヤ様を思い出す。
しかし、今目の前で書類を片手に現した姿は、病弱とは思えない体格と顔つきのカザヤ様。
やはり現実か……。
言われた通り、リビングのソファーに座って大人しく待つ。
バルガがお茶を入れてくれた。一口飲むとそわそわしていた心が落ち着いてくる。
「陛下、私はそろそろ帰ります。先ほどの書類は押印ののち、まとめておいてください。私が明日受け取り、関係各所に戻しますので」
「わかった。よろしくな」
奥からやり取りが聞こえ、バルガが出てくると私をチラッと一瞥した。そしてそのまま部屋を出て行く。
「バルカ様は私をよく思っていないのかしら……」
歓迎されている感じもしないが、極端に嫌われている感じもしない。ただ淡々と、しかしどこか探るような目で見られている気がした。
少ししたら、カザヤ様が奥の部屋から肩を回して戻ってきた。
「いやー、やっと終わったよ。やるべきことが多すぎて目が回りそうだ」
「お疲れ様でございました。お茶入れますね」
バルカが用意しておいていった紅茶を入れる。その紅茶を一口飲んで、カザヤ様はホッと息を吐いた。
「今朝の朝議、ラナにも見せてやりたかったよ。俺が健康体だということは一部の人間しか知らなかったことだから、家臣たちのどよめきが凄かった。オウガなんて目が飛び出るほど驚いていた」
そう可笑しそうに饒舌に話す。
「そうでしたか。皆様の反応や反響はいかがでしたか?」
「おおむね歓迎だった。親父が俺をスムーズに就任できるように自分の家臣らにも手回ししていたらしい。オウガ派はいるだろうが、それも権力は持てないだろうからそこまで心配はいらないだろう」
苦笑しているが、カザヤ様からにじみ出る気品や圧が物を言わせなかったと薬師長が話しているのを聞いた。
圧倒的、王族のオーラだと。
カザヤ様が出てきた時、朝議の場はどよめき混乱が起こった。病弱のはずの第一王子が堂々と立派な体躯で出てきたのだから無理もない。
カザヤ様から体の心配は何一つないこと、正式に国王に就任したことなどが語られた。
当然だが、一部の家臣以外はかなり驚いていたようだ。
家臣の一人が「本当に病気ではないのか? 王子は嘘をついて騙していたのか? 公務をこなしてこなかったあなたに何ができるのか」と質問攻めにあったらしい。
当然だよね。
しかし、カザヤ様は全ての質問に真摯に答えたという。
そして最後に一言。
「俺はこの国を導くために生まれてきた。俺を信じられないものは、今与えられている任から降りてもらってもいい」
と、凛とした声で告げたというのだ。
その声は自信に溢れ堂々としており、国王としての威厳が備わっていたという。
ディア薬師長曰く「オウガ様にはあれは無理ね」だそうだ。
「もう政務に取り掛かっているんですね」
「あぁ、親父がいた頃から手伝っていたから滞りはない。戴冠式はまだ先だが、俺は正式に後を継いだし休んでいる暇はないな」
そんなに忙しいのに、どうして私を呼んだの……?
カザヤ様の気持ちがわからないまま、二人でお茶を飲みながら他愛もない世間話をした。
監視下に置くと言われたけど、とてものどかな時間だった。
カザヤ様との会話は楽しい。王子という側面ではなく、カザヤ様自身を見れているようで嬉しい。
こんな風に話が出来るなんて思わなかった。
ふと気が付けば一時間が立っていた。あっという間だ。少し名残惜しいが、そろそろ帰らなければ明日の仕事にも影響してしまう。
何より、カザヤ様にもゆっくり休んでほしかった。
「もうこんな時間……。カザヤ様、私そろそろ……」
「あぁ、そうだな」
立ち上がって扉に向かうと、不意に私の腕をカザヤ様が掴んだ。
「え……?」
「また明日」
真っすぐ私を見て微笑むカザヤ様に、頬が熱くなるのを感じた。カザヤ様にこんな風に見つめられたことはない。
なんだろう……。胸がソワソワする。
心の奥へと入ってきそうな視線。そして手首から伝わるカザヤ様の手の温もりに動揺が隠せない。
ドキドキと胸が苦しくなって、目をそらした。
「失礼いたします」
部屋を出ると、逃げる様にその場を後にした。
――――
それから私はカザヤ様の約束通り、毎日仕事終わりにカザヤ様の部屋へ通った。
だって命令なんだもの。
そう思いながらも、嫌だとは思っていない自分がいる。
カザヤ様は忙しそうにしながらも、いつも必ずその時間は部屋に居て、仕事の手を休めて私と何気ない会話をする。
「息抜きだ」
そんなこと言ってくれるけど……、こんな私で良いのかしら。
私なんかではなく、もっと他に息抜きの方法があっただろうに……。
せっかくの休憩なのに、私と話すことで時間が無くなってしまうのが申し訳なく感じた。
「髪飾り、着けてくれているんだな」
定位置になりつつあるソファーの端にいつものように座っていると、カザヤ様は隣に腰かけながらそっと私の髪に触れた。
私の髪には、先日カザヤ様に頂いた髪飾りが着いている。
「あ……、はい」
優しく触れるその仕草だけでもドキドキしてしまうのだから困ったものだ。
「カザヤ様の前では着ける約束ですから」
「そうだな。似合っている。可愛い……」
低く甘さを含めた声で囁かれる。私はこれでもかと言うほどに真っ赤になった。
そんな声で囁かないでほしい…!! 心臓に悪すぎる!
動揺する私を、カザヤ様は楽しそうに見ていた。
「か、からかわないでください」
「からかってなんかいない。ラナは可愛い。俺にとってラナと過ごすこの時間が唯一リラックスできる時間だからな」
また、そんなこと言って……。カザヤ様は本当に口が上手い。
カザヤ様は大きく伸びをしながら、私に寄りかかった。体重をかけているわけではないから重くはないけど、近く息もかかりそうなほどの距離にカザヤ様がいる。
どうしよう! うわぁ、凄く良い香りがする。
もう、内心パニックだ。
身を固くしている私なんてお見通しだろうに、カザヤ様はお構いなしだ。
なんで? カザヤ様はどういうつもりでこんなことをするのだろう……。
自惚れかもしれないけど、監視下に置くというのは建前のような気がする。私だけ特別な気がして、勘違いしそうになる。
まさか、ね……。
そんなはずない。相手は一国の国王で、勘違いするなど甚だしいわ。
ただの気まぐれなんだろう。
でも……。私にとっても、この時間は大切なものになりつつあった。
ーーーー
前国王陛下の葬儀が行われたこの日。私はいつものようにカザヤ様の部屋にいた。
「すみません、着替える時間がなかったものですから……」
この日は王宮、国民共に前国王に哀悼の意を込めて黒い服を着る。
私も同じで、この日は王宮横の教会で、献花の列に並びそのままカザヤ様の元へときた。
本当は、さすがにこの日はそっとしておこうと思っていたのだが、カザヤ様にちゃんと来るよう言われていたのだ。
「別にいいさ。献花してきたんだろう? ありがとう」
「いえ……」
カザヤ様も今さっき戻ったばかりなのか、礼服を着ている。口調はいたっていつもと同じで、唐突に私がいる目の前で服を窮屈そうに脱ぎ始めた。
「カ、カザヤ様! あの、私出ていますから!」
慌てて背を向けると、カザヤ様がおかしそうに笑った。
「そこに居ていいのに。すぐに着替えるから」
寝室で着替えてくれればいいのに! どこでも平気で着替えないでほしい。
後ろから衣擦れの音が聞こえる。私は両手で顔を覆った。恥ずかしくて耳まで真っ赤だろう。
「もういいよ」
恐る恐る振り返ると、薄い生地のラフな服に着替えを済ませていた。微笑みながらこちらを見てくるが、その表情はどこか疲れていた。
そうよね……。
前国王の葬儀ということは、カザヤ様にとっては父親の葬儀だということなのだから。悲しむ以前に、ずっと対応に追われていただろうし。
「今日はもうお休みになられたらいかがですか?」
「……なぜ?」
「お疲れのご様子です。私なんかに会うよりも、ゆっくり眠られた方が良いですよ」
本心だ。カザヤ様にはゆっくりと身も心も休めてほしかった。
すると、カザヤ様は深くソファーに座った。
「そうだな、今日は疲れた。国王就任してから初めて一族みんなに会ったから余計にだな」
「王家の皆様……。いかがでしたか?」
思わず聞いてしまうと、カザヤ様はフッと鼻で笑った。
「まぁ概ね好意的ではあったよ。敵に回したくないという所だ。たが、やはりオウガは油断ならない。あからさまに敵意むき出しの顔を向けてきた。なんだかあちらこちらに神経を使って凄く疲れたよ」
「それならば早くお休みされては……」
「でもな、そういう時だからこそ眠れなくなる」
カザヤ様はハァと息を吐いて上を見上げる。
「神経が研ぎ澄まされてしまったんだろう。そういう時は眠れないんだ。だから、ラナは何も気にせずにここに居てくれればいい」
「では……、眠れるお薬をお持ちしましょうか?」
薬師室に戻って眠れる薬を調合してこようかと思った。
それくらいなら、専属医師に一言許可を取れば処方がなくても渡すことは可能だ。
しかし、カザヤ様は隣に座る私の右手をそっと握る。
そのぬくもりに体がビクッと反応してしまった。
一瞬引きそうになったその手を、カザヤ様はしっかりと掴む。温もりが直接伝わってくるのがよくわかった。
「いや……、少しこのままでいてくれ。そうしたら神経の高ぶりも、次第に落ち着いていくだろうから……」
大きくごつごつした手が私の手を包む。温かくて優しい手だ。
私とは全然違う、大きい手……。
あぁ、待って。ドキドキと胸がうるさい。まずはカザヤ様の体を優先なのに私ったら……。
私は軽く咳払いをしてから言った。
「ではベッドに横になってください」
「……どういう意味で?」
真剣に言った私にカザヤ様はニヤッと笑う。その笑みの意味に気が付き顔を赤らめた。
「ち、違います。リラックスできる場所の方が落ち着きやすいと思って……」
「わかっているよ」
吹き出して笑うカザヤ様は、私の手を引いて寝室へと向かった。
そこは離してもいいんじゃないかなと思うけど……。
しっかりと繋がれた手を見つめる。
寝室へ入ると、カザヤ様は広いベッドに仰向けになってゴロンと横になった。
カザヤ様から「はぁ」と深いため息が漏れる。
私はベッドサイドに腰かけ、寝転がるカザヤ様を見つめる。
手はもちろん、離してもらえていない。
「体を起こしているより、少しでも横になっている方がリラックスして疲れも取れるはずです。私、ここに居るので寝てしまっても大丈夫ですよ」
「一緒に横になったっていいぞ」
「いいえ、結構です。服も皴になっちゃいますし」
なんとなく、そう言われる気がしていたのでそこは過剰に反応はしなかった。
どうやら、私を揶揄う余裕はあるらしい。
カザヤ様は疲れているところを見せないように、さっきからふざけたことばかり言っている。
そう思ったからこそ、手は振りほどけなかった。疲れの中に、寂しさが見えた気がしたから。
「ラナ、何か話してくれないか?」
「話とは?」
「お前の話を聞かせてほしい。そうだな、お前はどんな子供だった?」
唐突な質問に少し驚いたが、気がまぎれるかもしれない。
「そうですね……、子供の頃から本が好きな子供でした。貧しかったけれど、亡くなった父が大切にしていた本だけは売らずに家に置いていたんです」
「ラナは平民出だったよな? 何をしていたんだ?」
「普通の農家でした」
父が生きていた頃までは。
10歳の頃、父が病気でなくなり母ひとり子ひとりで頑張ってきた。
でも、生活は厳しくて母は昼も夜も働き詰めた。
服も家具も、お金になるものは売って生活していたが、父の本だけは売らなかった。売ったら父との繋がりがなくなるような気がしたのだ。
母もそれだけは許してくれた。
「父の残した本の中に薬学の本があったんです。本を見て、身体を壊した母のために見様見真似で薬を作ったりしていました」
「見様見真似?」
「はい」
目を丸くしたカザヤ様に頷く。
母は働き過ぎで身体を壊した。病院に通わせるお金がなくなっていったため、なんとか少しでも薬になるならと苦肉の策であった。
私自身、薬の勉強はとても楽しかった。貧しくて苦しい生活の中で、唯一私の好きな時間だったのだ。
「その後、母の病状は奇跡的に回復しました。でも、出稼ぎに出た場所で事故に会い亡くなったんです」
私が15の時だった。
たった一人になった私は、母が亡くなる直前に貯めてくれたお金で薬学の学校へ進んだ。働きながら猛勉強をして念願の薬師になったのだ。
「王宮薬師室への就職は学校の恩師の推薦でした」
「ラナの恩師は元王宮薬師だったらしいな」
「ご存じでしたか。そうです。あ、でも試験はちゃんと受けましたよ。恩師が力になってくれたのは、私の身元についてくらいです」
王宮薬師になるには身元がしっかりしていないといけない。王宮薬師は貴族出身がほとんどで、私のような一般人はいないからだ。
恩師が後ろ盾になってくれたことで、試験を受けることができた。
まあ……、見方によってはコネとも言えなくもないが……。
「そして有難いことに試験に合格して就職できてんです」
「簡単に話してくれるが、王宮薬師室なんてどんなコネがあってもそうそう受かるものじゃない。あそこは実力の世界だ。ラナは凄いな」
カザヤ様の関心したような言葉に照れて俯く。
カザヤ様の言う通り、王宮全部の人間の薬を調合する王宮薬師室はとても慎重に人間を選んでいる。
試験は身分関係なく受けられるが、どんなに薬師としての経験や腕があろうとも、少しでも変な疑いや危険だと感じられれば受かることはまずない。精神や人格テストもある。最終試験に進んだ者は、徹底的に身元も3〜4代前まで遡って調べ上げられる。
その厳しさから脱落辞退する者も多く、狭すぎる門だとも言われるのだ。
私自身もとてつもなく努力をしてきた。寝る間も惜しんでひたすら勉強をした。
私が薬師になれるよう、お金を貯めていてくれた母のとめにも必死になって、血の滲む努力をした。
あんな経験は二度とないだろう。
「ラナは努力家なんだな。よく頑張ってきた」
優しい声で褒められて、なんだか心がくすぐったくなる。
こんな風に誰かに褒められるなんて何年ぶりだろう。
しかも、その相手が国王だ。お褒めの言葉をいただけるなんて、なんて名誉なことだろう。
きっと母も喜ぶ。腐らず頑張ってきて良かった。
「ありがとうございます」
カザヤ様は少し落ち着いてきたのだろうか。目が先ほどよりもトロンとして、険しさがなくなってきている。
「カザヤ様はどんなお子様でしたか?」
ふと口から洩れた。目を開けたカザヤ様と視線が合う。
あ……、これは聞かない方が良かったかな。
不意に妙な焦りがわいてきた。
「あ、いえ……。ちょっと言ってみただけなので……」
「俺は……、幼い頃に母上が亡くなってから身を守るため、ずっと病弱を装って来たから活発に遊べなかったな。親父がそれを配慮して、王宮騎士団の訓練に時々紛れさせてくれるようになった」
親父というワードの時に、カザヤ様は懐かしそうに目を細める。
「ラナが部屋に薬を届けに来るときはいつも、直前まで訓練に参加していたんだ。王宮騎士団隊長のワサトは、俺が王子だと知っていても容赦なかった。俺に身を守るすべを叩き込んでくれた。お陰で怪我が絶えなかったけどな」
「あぁ! それで痛み止めと湿布薬なんですね」
訓練でしごかれた体はあちこちに傷を伴って痛みが強い。さらに腫れることもあるだろうから、湿布薬が必要になるのだろう。
私はそれを届けていたのだ。
痛み止めと湿布薬なんて変だなぁとは思ってたんだよね。
「王帝学を学びながら、親父が政治を教えてくれた。厳しかったが、お陰でこうして国王に就任しても滞りはない」
「前陛下は熱心に教えてくださったのですね。カザヤ様が次期国王になることを見越して」
「いや……、違う」
苦笑したカザヤ様に首をかしげる。違うとはどういうことだろう。
「親父は俺とオウガのどちらがふさわしいか、力量をずっと確かめていたんだ。結果、俺が選ばれただけ」
「カザヤ様……」
どこか自嘲気味に笑う。
その顔がとても寂しげに見えた。かける言葉が見つからなくて、黙り込んでしまう。
カザヤ様は私に視線を向けて小さく微笑んだ。
「まぁ、比べなくても力量は一目瞭然だったけどな」
どこか自信ありなので、私もつい微笑んでしまった。
「前陛下は、カザヤ様をお褒めにはならなかったんですか?」
「え……?」
「政治や公務を教えてくださったときとか、なにかお声がけは?」
そう問いかけると、カザヤ様は黙った。視線が上を向き、記憶を辿っている様子が見られる。
「あった……な」
どこか懐かしそうな目をした後、そっと閉じられる。
「そうだった。親父は俺をよく褒めてくれた」
「そうですか」
それなら良かったと安堵する。あまりにもカザヤ様が悲しそうに見えたから、少しでも良い思い出を思い出して欲しかったのだ。
でも今は、懐かしさの記憶の中へ入り込もうとしている。
それでいい。今日くらいは……ね。
しばらく目を閉じていたカザヤ様は、次第に規則正しい寝息を立て始めていた。
ああ、良かった。落ち着いて眠れたようだ。
安堵の息が漏れ、口元に笑みが浮かぶ。カザヤ様とつないでいた手をそっと離し、その体に布団をかけた。
「おやすみなさいませ」
小さな声で呟くと、私はカザヤ様の部屋を後にした。
カザヤ様の部屋へ通じる通りは、衛兵たちに話がすでに通っているのか、私が現れても止められることなくスムーズに通された。
しかし、奥へ行くにつれていつもよりも警備は手厚くなっている。
「凄い数ね……」
まぁ、当然だよね。
あの夜、襲撃もあったし、なによりカザヤ様は国王になったんだから……。
カザヤ様の部屋の前まで行くと、逆に多くの衛兵の目が気になって早く扉が開かないかと妙な焦りが生まれたほどだ。
「ラナでございます」
そう声をかけると扉が開いた。現れたのはバルガだ。
「バルガ様…?」
てっきりカザヤ様が出てくるのだと思っていたので、少し拍子抜けしてしまった。
「どうぞ」
バルガは体をよけて通してくれる。
「失礼致します」
あまり表情の喜怒哀楽が見えないので、私はバルガが少し苦手だ。どう会話をしていいかわからなくなる。
バルガに言葉少な気に中へ通されると、リビングの奥の書斎からカザヤ様が顔を出した。
「あぁ、もうそんな時間か。ラナ、そこで座って待っていてくれ」
カザヤ様の柔らかい笑みに、いつも布団の中から微笑みかけてくれていたカザヤ様を思い出す。
しかし、今目の前で書類を片手に現した姿は、病弱とは思えない体格と顔つきのカザヤ様。
やはり現実か……。
言われた通り、リビングのソファーに座って大人しく待つ。
バルガがお茶を入れてくれた。一口飲むとそわそわしていた心が落ち着いてくる。
「陛下、私はそろそろ帰ります。先ほどの書類は押印ののち、まとめておいてください。私が明日受け取り、関係各所に戻しますので」
「わかった。よろしくな」
奥からやり取りが聞こえ、バルガが出てくると私をチラッと一瞥した。そしてそのまま部屋を出て行く。
「バルカ様は私をよく思っていないのかしら……」
歓迎されている感じもしないが、極端に嫌われている感じもしない。ただ淡々と、しかしどこか探るような目で見られている気がした。
少ししたら、カザヤ様が奥の部屋から肩を回して戻ってきた。
「いやー、やっと終わったよ。やるべきことが多すぎて目が回りそうだ」
「お疲れ様でございました。お茶入れますね」
バルカが用意しておいていった紅茶を入れる。その紅茶を一口飲んで、カザヤ様はホッと息を吐いた。
「今朝の朝議、ラナにも見せてやりたかったよ。俺が健康体だということは一部の人間しか知らなかったことだから、家臣たちのどよめきが凄かった。オウガなんて目が飛び出るほど驚いていた」
そう可笑しそうに饒舌に話す。
「そうでしたか。皆様の反応や反響はいかがでしたか?」
「おおむね歓迎だった。親父が俺をスムーズに就任できるように自分の家臣らにも手回ししていたらしい。オウガ派はいるだろうが、それも権力は持てないだろうからそこまで心配はいらないだろう」
苦笑しているが、カザヤ様からにじみ出る気品や圧が物を言わせなかったと薬師長が話しているのを聞いた。
圧倒的、王族のオーラだと。
カザヤ様が出てきた時、朝議の場はどよめき混乱が起こった。病弱のはずの第一王子が堂々と立派な体躯で出てきたのだから無理もない。
カザヤ様から体の心配は何一つないこと、正式に国王に就任したことなどが語られた。
当然だが、一部の家臣以外はかなり驚いていたようだ。
家臣の一人が「本当に病気ではないのか? 王子は嘘をついて騙していたのか? 公務をこなしてこなかったあなたに何ができるのか」と質問攻めにあったらしい。
当然だよね。
しかし、カザヤ様は全ての質問に真摯に答えたという。
そして最後に一言。
「俺はこの国を導くために生まれてきた。俺を信じられないものは、今与えられている任から降りてもらってもいい」
と、凛とした声で告げたというのだ。
その声は自信に溢れ堂々としており、国王としての威厳が備わっていたという。
ディア薬師長曰く「オウガ様にはあれは無理ね」だそうだ。
「もう政務に取り掛かっているんですね」
「あぁ、親父がいた頃から手伝っていたから滞りはない。戴冠式はまだ先だが、俺は正式に後を継いだし休んでいる暇はないな」
そんなに忙しいのに、どうして私を呼んだの……?
カザヤ様の気持ちがわからないまま、二人でお茶を飲みながら他愛もない世間話をした。
監視下に置くと言われたけど、とてものどかな時間だった。
カザヤ様との会話は楽しい。王子という側面ではなく、カザヤ様自身を見れているようで嬉しい。
こんな風に話が出来るなんて思わなかった。
ふと気が付けば一時間が立っていた。あっという間だ。少し名残惜しいが、そろそろ帰らなければ明日の仕事にも影響してしまう。
何より、カザヤ様にもゆっくり休んでほしかった。
「もうこんな時間……。カザヤ様、私そろそろ……」
「あぁ、そうだな」
立ち上がって扉に向かうと、不意に私の腕をカザヤ様が掴んだ。
「え……?」
「また明日」
真っすぐ私を見て微笑むカザヤ様に、頬が熱くなるのを感じた。カザヤ様にこんな風に見つめられたことはない。
なんだろう……。胸がソワソワする。
心の奥へと入ってきそうな視線。そして手首から伝わるカザヤ様の手の温もりに動揺が隠せない。
ドキドキと胸が苦しくなって、目をそらした。
「失礼いたします」
部屋を出ると、逃げる様にその場を後にした。
――――
それから私はカザヤ様の約束通り、毎日仕事終わりにカザヤ様の部屋へ通った。
だって命令なんだもの。
そう思いながらも、嫌だとは思っていない自分がいる。
カザヤ様は忙しそうにしながらも、いつも必ずその時間は部屋に居て、仕事の手を休めて私と何気ない会話をする。
「息抜きだ」
そんなこと言ってくれるけど……、こんな私で良いのかしら。
私なんかではなく、もっと他に息抜きの方法があっただろうに……。
せっかくの休憩なのに、私と話すことで時間が無くなってしまうのが申し訳なく感じた。
「髪飾り、着けてくれているんだな」
定位置になりつつあるソファーの端にいつものように座っていると、カザヤ様は隣に腰かけながらそっと私の髪に触れた。
私の髪には、先日カザヤ様に頂いた髪飾りが着いている。
「あ……、はい」
優しく触れるその仕草だけでもドキドキしてしまうのだから困ったものだ。
「カザヤ様の前では着ける約束ですから」
「そうだな。似合っている。可愛い……」
低く甘さを含めた声で囁かれる。私はこれでもかと言うほどに真っ赤になった。
そんな声で囁かないでほしい…!! 心臓に悪すぎる!
動揺する私を、カザヤ様は楽しそうに見ていた。
「か、からかわないでください」
「からかってなんかいない。ラナは可愛い。俺にとってラナと過ごすこの時間が唯一リラックスできる時間だからな」
また、そんなこと言って……。カザヤ様は本当に口が上手い。
カザヤ様は大きく伸びをしながら、私に寄りかかった。体重をかけているわけではないから重くはないけど、近く息もかかりそうなほどの距離にカザヤ様がいる。
どうしよう! うわぁ、凄く良い香りがする。
もう、内心パニックだ。
身を固くしている私なんてお見通しだろうに、カザヤ様はお構いなしだ。
なんで? カザヤ様はどういうつもりでこんなことをするのだろう……。
自惚れかもしれないけど、監視下に置くというのは建前のような気がする。私だけ特別な気がして、勘違いしそうになる。
まさか、ね……。
そんなはずない。相手は一国の国王で、勘違いするなど甚だしいわ。
ただの気まぐれなんだろう。
でも……。私にとっても、この時間は大切なものになりつつあった。
ーーーー
前国王陛下の葬儀が行われたこの日。私はいつものようにカザヤ様の部屋にいた。
「すみません、着替える時間がなかったものですから……」
この日は王宮、国民共に前国王に哀悼の意を込めて黒い服を着る。
私も同じで、この日は王宮横の教会で、献花の列に並びそのままカザヤ様の元へときた。
本当は、さすがにこの日はそっとしておこうと思っていたのだが、カザヤ様にちゃんと来るよう言われていたのだ。
「別にいいさ。献花してきたんだろう? ありがとう」
「いえ……」
カザヤ様も今さっき戻ったばかりなのか、礼服を着ている。口調はいたっていつもと同じで、唐突に私がいる目の前で服を窮屈そうに脱ぎ始めた。
「カ、カザヤ様! あの、私出ていますから!」
慌てて背を向けると、カザヤ様がおかしそうに笑った。
「そこに居ていいのに。すぐに着替えるから」
寝室で着替えてくれればいいのに! どこでも平気で着替えないでほしい。
後ろから衣擦れの音が聞こえる。私は両手で顔を覆った。恥ずかしくて耳まで真っ赤だろう。
「もういいよ」
恐る恐る振り返ると、薄い生地のラフな服に着替えを済ませていた。微笑みながらこちらを見てくるが、その表情はどこか疲れていた。
そうよね……。
前国王の葬儀ということは、カザヤ様にとっては父親の葬儀だということなのだから。悲しむ以前に、ずっと対応に追われていただろうし。
「今日はもうお休みになられたらいかがですか?」
「……なぜ?」
「お疲れのご様子です。私なんかに会うよりも、ゆっくり眠られた方が良いですよ」
本心だ。カザヤ様にはゆっくりと身も心も休めてほしかった。
すると、カザヤ様は深くソファーに座った。
「そうだな、今日は疲れた。国王就任してから初めて一族みんなに会ったから余計にだな」
「王家の皆様……。いかがでしたか?」
思わず聞いてしまうと、カザヤ様はフッと鼻で笑った。
「まぁ概ね好意的ではあったよ。敵に回したくないという所だ。たが、やはりオウガは油断ならない。あからさまに敵意むき出しの顔を向けてきた。なんだかあちらこちらに神経を使って凄く疲れたよ」
「それならば早くお休みされては……」
「でもな、そういう時だからこそ眠れなくなる」
カザヤ様はハァと息を吐いて上を見上げる。
「神経が研ぎ澄まされてしまったんだろう。そういう時は眠れないんだ。だから、ラナは何も気にせずにここに居てくれればいい」
「では……、眠れるお薬をお持ちしましょうか?」
薬師室に戻って眠れる薬を調合してこようかと思った。
それくらいなら、専属医師に一言許可を取れば処方がなくても渡すことは可能だ。
しかし、カザヤ様は隣に座る私の右手をそっと握る。
そのぬくもりに体がビクッと反応してしまった。
一瞬引きそうになったその手を、カザヤ様はしっかりと掴む。温もりが直接伝わってくるのがよくわかった。
「いや……、少しこのままでいてくれ。そうしたら神経の高ぶりも、次第に落ち着いていくだろうから……」
大きくごつごつした手が私の手を包む。温かくて優しい手だ。
私とは全然違う、大きい手……。
あぁ、待って。ドキドキと胸がうるさい。まずはカザヤ様の体を優先なのに私ったら……。
私は軽く咳払いをしてから言った。
「ではベッドに横になってください」
「……どういう意味で?」
真剣に言った私にカザヤ様はニヤッと笑う。その笑みの意味に気が付き顔を赤らめた。
「ち、違います。リラックスできる場所の方が落ち着きやすいと思って……」
「わかっているよ」
吹き出して笑うカザヤ様は、私の手を引いて寝室へと向かった。
そこは離してもいいんじゃないかなと思うけど……。
しっかりと繋がれた手を見つめる。
寝室へ入ると、カザヤ様は広いベッドに仰向けになってゴロンと横になった。
カザヤ様から「はぁ」と深いため息が漏れる。
私はベッドサイドに腰かけ、寝転がるカザヤ様を見つめる。
手はもちろん、離してもらえていない。
「体を起こしているより、少しでも横になっている方がリラックスして疲れも取れるはずです。私、ここに居るので寝てしまっても大丈夫ですよ」
「一緒に横になったっていいぞ」
「いいえ、結構です。服も皴になっちゃいますし」
なんとなく、そう言われる気がしていたのでそこは過剰に反応はしなかった。
どうやら、私を揶揄う余裕はあるらしい。
カザヤ様は疲れているところを見せないように、さっきからふざけたことばかり言っている。
そう思ったからこそ、手は振りほどけなかった。疲れの中に、寂しさが見えた気がしたから。
「ラナ、何か話してくれないか?」
「話とは?」
「お前の話を聞かせてほしい。そうだな、お前はどんな子供だった?」
唐突な質問に少し驚いたが、気がまぎれるかもしれない。
「そうですね……、子供の頃から本が好きな子供でした。貧しかったけれど、亡くなった父が大切にしていた本だけは売らずに家に置いていたんです」
「ラナは平民出だったよな? 何をしていたんだ?」
「普通の農家でした」
父が生きていた頃までは。
10歳の頃、父が病気でなくなり母ひとり子ひとりで頑張ってきた。
でも、生活は厳しくて母は昼も夜も働き詰めた。
服も家具も、お金になるものは売って生活していたが、父の本だけは売らなかった。売ったら父との繋がりがなくなるような気がしたのだ。
母もそれだけは許してくれた。
「父の残した本の中に薬学の本があったんです。本を見て、身体を壊した母のために見様見真似で薬を作ったりしていました」
「見様見真似?」
「はい」
目を丸くしたカザヤ様に頷く。
母は働き過ぎで身体を壊した。病院に通わせるお金がなくなっていったため、なんとか少しでも薬になるならと苦肉の策であった。
私自身、薬の勉強はとても楽しかった。貧しくて苦しい生活の中で、唯一私の好きな時間だったのだ。
「その後、母の病状は奇跡的に回復しました。でも、出稼ぎに出た場所で事故に会い亡くなったんです」
私が15の時だった。
たった一人になった私は、母が亡くなる直前に貯めてくれたお金で薬学の学校へ進んだ。働きながら猛勉強をして念願の薬師になったのだ。
「王宮薬師室への就職は学校の恩師の推薦でした」
「ラナの恩師は元王宮薬師だったらしいな」
「ご存じでしたか。そうです。あ、でも試験はちゃんと受けましたよ。恩師が力になってくれたのは、私の身元についてくらいです」
王宮薬師になるには身元がしっかりしていないといけない。王宮薬師は貴族出身がほとんどで、私のような一般人はいないからだ。
恩師が後ろ盾になってくれたことで、試験を受けることができた。
まあ……、見方によってはコネとも言えなくもないが……。
「そして有難いことに試験に合格して就職できてんです」
「簡単に話してくれるが、王宮薬師室なんてどんなコネがあってもそうそう受かるものじゃない。あそこは実力の世界だ。ラナは凄いな」
カザヤ様の関心したような言葉に照れて俯く。
カザヤ様の言う通り、王宮全部の人間の薬を調合する王宮薬師室はとても慎重に人間を選んでいる。
試験は身分関係なく受けられるが、どんなに薬師としての経験や腕があろうとも、少しでも変な疑いや危険だと感じられれば受かることはまずない。精神や人格テストもある。最終試験に進んだ者は、徹底的に身元も3〜4代前まで遡って調べ上げられる。
その厳しさから脱落辞退する者も多く、狭すぎる門だとも言われるのだ。
私自身もとてつもなく努力をしてきた。寝る間も惜しんでひたすら勉強をした。
私が薬師になれるよう、お金を貯めていてくれた母のとめにも必死になって、血の滲む努力をした。
あんな経験は二度とないだろう。
「ラナは努力家なんだな。よく頑張ってきた」
優しい声で褒められて、なんだか心がくすぐったくなる。
こんな風に誰かに褒められるなんて何年ぶりだろう。
しかも、その相手が国王だ。お褒めの言葉をいただけるなんて、なんて名誉なことだろう。
きっと母も喜ぶ。腐らず頑張ってきて良かった。
「ありがとうございます」
カザヤ様は少し落ち着いてきたのだろうか。目が先ほどよりもトロンとして、険しさがなくなってきている。
「カザヤ様はどんなお子様でしたか?」
ふと口から洩れた。目を開けたカザヤ様と視線が合う。
あ……、これは聞かない方が良かったかな。
不意に妙な焦りがわいてきた。
「あ、いえ……。ちょっと言ってみただけなので……」
「俺は……、幼い頃に母上が亡くなってから身を守るため、ずっと病弱を装って来たから活発に遊べなかったな。親父がそれを配慮して、王宮騎士団の訓練に時々紛れさせてくれるようになった」
親父というワードの時に、カザヤ様は懐かしそうに目を細める。
「ラナが部屋に薬を届けに来るときはいつも、直前まで訓練に参加していたんだ。王宮騎士団隊長のワサトは、俺が王子だと知っていても容赦なかった。俺に身を守るすべを叩き込んでくれた。お陰で怪我が絶えなかったけどな」
「あぁ! それで痛み止めと湿布薬なんですね」
訓練でしごかれた体はあちこちに傷を伴って痛みが強い。さらに腫れることもあるだろうから、湿布薬が必要になるのだろう。
私はそれを届けていたのだ。
痛み止めと湿布薬なんて変だなぁとは思ってたんだよね。
「王帝学を学びながら、親父が政治を教えてくれた。厳しかったが、お陰でこうして国王に就任しても滞りはない」
「前陛下は熱心に教えてくださったのですね。カザヤ様が次期国王になることを見越して」
「いや……、違う」
苦笑したカザヤ様に首をかしげる。違うとはどういうことだろう。
「親父は俺とオウガのどちらがふさわしいか、力量をずっと確かめていたんだ。結果、俺が選ばれただけ」
「カザヤ様……」
どこか自嘲気味に笑う。
その顔がとても寂しげに見えた。かける言葉が見つからなくて、黙り込んでしまう。
カザヤ様は私に視線を向けて小さく微笑んだ。
「まぁ、比べなくても力量は一目瞭然だったけどな」
どこか自信ありなので、私もつい微笑んでしまった。
「前陛下は、カザヤ様をお褒めにはならなかったんですか?」
「え……?」
「政治や公務を教えてくださったときとか、なにかお声がけは?」
そう問いかけると、カザヤ様は黙った。視線が上を向き、記憶を辿っている様子が見られる。
「あった……な」
どこか懐かしそうな目をした後、そっと閉じられる。
「そうだった。親父は俺をよく褒めてくれた」
「そうですか」
それなら良かったと安堵する。あまりにもカザヤ様が悲しそうに見えたから、少しでも良い思い出を思い出して欲しかったのだ。
でも今は、懐かしさの記憶の中へ入り込もうとしている。
それでいい。今日くらいは……ね。
しばらく目を閉じていたカザヤ様は、次第に規則正しい寝息を立て始めていた。
ああ、良かった。落ち着いて眠れたようだ。
安堵の息が漏れ、口元に笑みが浮かぶ。カザヤ様とつないでいた手をそっと離し、その体に布団をかけた。
「おやすみなさいませ」
小さな声で呟くと、私はカザヤ様の部屋を後にした。