龍帝陛下の身代わり花嫁

…彼の名前


 目を細めながら告げられたその言葉が、ふと耳に引っかかった。

「そういえば、龍帝陛下は『龍族』ではなく『神龍族』だと聞いた気がします」
「ああ、その通りだ」

 相槌を打った彼は、白い砂糖菓子を摘んで口に含む。

「龍族と神龍族は違うんですか?」
「元を辿れば同じ種族だな。龍族に生まれた先祖返りを神龍族と呼び、その他の者については龍族と呼ぶ。実際、私を産んだ母親は龍族の一人だった」
「親子で種族が違うこともあるんですね」

 驚きに目を瞠る私を見て、彼はふっとその顔を緩めた。

「そういえば、昨夜そなたがどうやって世界を渡ったのかを聞いていなかったな」
「どうやって、ですか?」

 唐突な質問に首を傾げる。
 どうやってと聞かれても、正直自分が聞きたいくらいだ。
 あの夜は桜並木を歩いていただけで、気が付けばこちらの世界に迷い込んでいた。

「水に落ちた先に辿りつくことが多いと聞くが、そなたもその類か?」
「いえ私は――」

 特に隠すことでもないかと、花見の帰りに夜道を歩いていたことをそのまま説明する。
 今朝この部屋で目覚めるまでは、夢か幻覚かもしれないと思っていたが、ここまでくるともう現実だと受け止めるしかなかった。

「なるほどな。そなた、酒に弱い体質なのか?」
「え?」
「酒に酔って道を間違えたのなら、酩酊していたのだろう?」

 その言葉に、昨夜の記憶を辿る。
 言われてみれば、確かに普段よりは量を飲んでいたのかもしれない。

「そこまで酒に弱い体質ではないと思いますが、昨日は自身の送別会でもあったので確かにいつもよりは飲んでいたかもしれません」
「ソウベツカイ?」
「会社を辞める私のために周りの皆が開いてくれたんです。来週からは、花嫁修業のために田舎に引っ越す予定でした」

 そう口にした瞬間、向かいの彼は瞳を大きく見開いた。

「そなた、想う相手がいたのか?」
「え?」
「近々、花嫁修業に向かう予定だったのだろう?」

 その言葉に、慌てて頭を横に振る。
 確かに私の説明だけでは、まるで大切な結婚を控えていたかのように聞こえたかもしれない。

「ち、違います! 親戚の勧めで受けた縁談が、いつの間にかそういう話に進んでしまいまして……」
「そなたの意思ではないと?」
「ええと、まあ……そういう感情はなかったですね」

 苦笑いを浮かべることしかできない私に、彼は不思議そうに首を傾げた。

「本意ではないのなら、断ればいいのではないか?」

 その黄金色の瞳に真っ直ぐ見つめられて、つい視線を俯けてしまう。

「それは難しいかなと。縁談を用意してくれた親戚の顔も立てないといけませんし、相手のことを何も知らないのに一方的にお断りするのも失礼かなと思うので」
「……そなたの嫁入りだというのに、そなたの意思はどこにもないのだな」

 そう口にした彼は、こちらを非難するつもりも、咎めるつもりもないのだろう。
 それは理解しているはずなのに、これまで周囲の顔色を窺ってきた己の生き方が、彼の目にどう映るのかと思うと、つい顔が強張ってしまった。

「そう、ですね」
「まあそれは、そなたを花嫁に縛りつけた私も同じだが」

 自嘲するような呟きと共に、部屋には沈黙が落ちる。
 気まずい空気に慌てて話題を探していると、ハッと日中の会話を思い出した。

「あっあの! ココさんから近々お祭りがあると聞きまして、一緒に外出してみませんか? 私の世界でいう『デート』というものです!」
「『デート』?」
「はい! 思い合う男女が、二人きりで出かけるという意味です」

 私の提案に、龍帝陛下はふっとその表情を和らげる。

「それは楽しそうだな。準備を進めておこう」
「あ、ありがとうございます!」

 先程までの重い空気から解放されたことに、ほっと胸を撫で下ろす。
 昨夜、彼は退屈をしていると言っていた。
 外出というイベントは良い提案だったかもしれない。

「あの、陛下――」
「レイゼンだ」

 私の声を遮るように告げられた言葉に目を瞬く。

「私の名はレイゼンと言う。そなたには特別に私の名を呼ぶことを許そう」
「レイゼン、様?」

 そう口にすれば、向かいの彼は嬉しそうに目を細めた。

「うむ。名前を呼ばれるのは久方ぶりだが、いいものだな」

 その手が伸ばされたかと思うと、指先が頰に触れる。
 輪郭をなぞるように頬を撫でられれば、彼に触れられている場所から、こそばゆいようなくすぐったいような感覚が走った。
 今まで、こんなふうに異性に触れられた経験などない。
 初めてのことに戸惑いつつも、慣れない接触に視線を俯けていれば、不意にぽんと彼の手が頭に置かれた。

「ハルカ。どうか私を楽しませておくれ」

 そう告げた彼は、目尻を下げるようにしてこちらに微笑みかける。
 燭台の灯る薄暗い部屋の中、向けられた黄金色の眼差しに、不思議とどこか懐かしさを感じるのだった。

< 14 / 47 >

この作品をシェア

pagetop