龍帝陛下の身代わり花嫁

第二章 仮初の生活


 真っ暗な闇の中、誰かが私の名前を呼んでいる。
 動かそうとしても指一本動かすことはできない。
 全身に力が入らず、ただただ命の灯が消えていく感覚。
 血が流れすぎているのか、もう痛みは感じなくなっていた。

――ああ、またいつもの夢。

 両親を亡くした事故から十年以上経過しても、未だに当時のことを夢に見る。
 生存は絶望的だと言われたあの状況で、なぜ私だけが生き残ったのかと周囲からは散々聞かれたが、その理由は私が一番知りたかった。

「――ま、ハルカ様!」

 耳に飛び込んできた声に、反射的に飛び起きる。
 目に映ったのは、格子に囲まれた壁と布を張ったような衝立。
 その光景に、昨夜の出来事が夢ではなかったことを実感する。

 ――夢じゃ、なかったのね

 もしかして一晩寝れば何事もない日常が戻ってくるかもしれないと思っていたが、そんな淡い期待はあっさりと崩れ去ってしまった。
 小さく肩を落とせば、両横に座り込んでいた二人の女性はこちらを覗き込んでくる。

「おはよう、ございます。ええと……」
「私はクランでございます」
「ふふ、私はココでございますわ」

 クランと名乗った女性は切れ長の瞳を細め、腰までありそうな長い白髪を払う。
 ココと名乗った豊かな黒髪の女性は小さな笑い声をあげながら、おっとりとした笑みを浮かべた。
 和装のような服をふんわり着ている彼女達は、昨夜龍帝陛下が私の部屋に訪れたときに同行していた二人だった。

『これを花嫁として受け入れる。丁重にもてなすように』

 昨夜彼がそう告げた瞬間から、彼女達は私付きの侍女になったらしい。
 そんな二人の手を借りて、慣れない環境の中でも、なんとか異世界での二日目を迎えていた。

「なかなかお目覚めになられないので少々心配いたしましたわ。お疲れのご様子ですし、お目覚めの湯を持って参りましょう」
「魘されていたようですし身体も拭きましょうか。温かい蒸し布巾を用意いたしますわ」
「妙案ですわね、ココ。今夜の陛下の訪れまでまだ時間もありますし、ハルカ様にはゆっくりと調子を整えていただきましょう」

 話がついたらしい二人は、呼び止める間もなく部屋を去って行く。
 一人残された部屋でぽかんと口を開けていれば、不意に暖かな風が吹き込んできた。
 その風に誘われるように衝立の向こうを見れば、仕切り布越しに挿し込む陽光が目に入る。
 この明るさからするに、もう朝も遅い時間なのだろう。
 知らない世界に迷い込んでいる状況だというのに、我ながら図太い神経をしていると思うと、ふっと口元が緩んでしまった。

「……本当に、夢でも見ているみたい」

 ぽつりと言葉が漏れる。
 昨日、ひょんなことから『龍帝陛下の花嫁』の身代わりを務めることになり、私の正体を見抜いた龍帝陛下から取引を提案された。

『これから七日間、私の花嫁となってもらう』
『花嫁として夫となる私の心を射止めてもらおう。私に好かれるよう振る舞っておくれ』

 昨日の取引の内容を思い出しながら、ゆっくりと瞼を閉じる。
 昨夜顔を合わせた青年は、青みがかった黒髪に黄金色の瞳をしていた。
 ふんわりとした和装のような服を着ていた彼は、まるで宮廷貴族のように感じたが、どこの世界でも身分の高い人の衣服はあんな感じなのだろうか。

「綺麗な人だったな」

 ぽつりと漏れた緊張感のない発言に、つい自嘲の笑みが溢れる。
 異性の心を射止めるなんて、一体何をすればいいのだろうか。
 これまで色恋沙汰に縁がなかった自分にとって、龍帝陛下から提案された条件はかなりハードルの高いものだった。

「それでもやるしか、ないわよね」

 薄らと瞼を開けば、自分の着ている白い服が映る。
 正直まだ半信半疑ではあるが、見たこともないような建物で寝起きし、一人では到底着られないような服を着ていることに、改めてここが異世界であることを実感してしまう。

 ――ここに来たのが送別会の後だったのは運がよかったのかも。

 送別会を終えた私は、皆に別れの挨拶を伝えたあとだったし今日以降の出勤予定はない。
 結婚相手のいる地方に行くのは来週の予定にしていたため、私がいないことで誰かに迷惑をかけることもなかった。

 ――不幸中の幸いってやつね。

 そんなことを考えて、思わず苦笑が漏れる。
 昔から運だけは良いほうだった。
 両親を亡くした事故でも、同乗していた私が命を取り留めたのは奇跡だったという。
 そんな自分の運の良さを鑑みれば、案外今回も運よく元の世界に帰れるのかもしれない。
 自分の楽観的な思考に小さく肩を竦めながら、ゆっくりと天を見上げた。

「そういえば、セジュンさんどうしたのかしら」

 昨夜、龍帝陛下に退室を促されてから、この部屋に帰ってきた様子はない。
 侍女の二人が身の回りのことを全てしてくれているので不自由はないが、ヨナ姫を逃げたことを龍帝陛下が把握していたため、彼の安否は気がかりではあった。

 ――二人が帰ってきたら、さりげなく聞いてみよう。

 心の内でそう呟くと、膝の上でぐっと拳を握りしめる。
 正直一体何をどうしたらいいのかわからないが、どちらにしろ私は龍帝陛下からの提案に従い、彼の花嫁として七日間を過ごさなければならないのだ。

 ――とりあえずは、龍帝陛下に好かれるよう努力しないと。

 そう心に決めると、ぐっと顔を上げる。
 今はただ、やれることをやるしかない。
 ヨナ姫達を逃がすため元の世界に帰るため、龍帝陛下の花嫁として過ごす決意を固めたのだった。
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