魔術師団長に、娶られました。

そこは団長判断で

 いつだって、危険はすぐ隣にあった。
 シェーラが今日まで無事に生きてこられたのは「他人よりずば抜けて武勇に優れていたから」ではない。
 警戒心が強かったからだ。

(油断した。浮ついていた。失敗のひとつが命取りになり得ると、わかっていたのに)

 気分の乗らない日だった、調子が悪かった。
 そんな言い訳が通用する仕事をしていない。
 命のやりとりが日常の職に就き、責任ある地位まで上り詰めたのだ。
 まさかその自分に限って、こんなところで。
 男性に組み敷かれて、なすすべも無いだなんて。

「……っ」

 首筋に生暖かいものを押し付けられて、全身がぞくりと総毛立つ。いやだ、こわい。逃げたい。
 だが手足はがっちりと押さえ込まれ、声も出ない。
 考え得る限り、最悪の状況だ。
 ほんの少し前まで、アーロンのことを考えて、幸せな気分に浸っていたのに。

(似合わないことをして、楽しい気持ちになっていたから、罰が下ったの? 今までずっと恋愛とかそういうことから背を向けてきたくせに、何事もなかったように「そちら側」へ行くなんて、許されるわけない、と)

 自責が止まらない。
 マドックの手が服の上から鎖骨の上を撫で、指先が胸を掠めた瞬間。
 わずかに、マドックの重心がずれたのを感じた。
 シェーラは考えるより先に、足を跳ね上げた。

「副、団長……ッ!」

(ヒットした。行ける!)

 マドックの分厚い手が空を切った。
 顔を狙っている。
 殴られると悟ったら、体が強張って、反応が遅れた。
 紛れもない、恐怖。命を狙われるより怖い、暴力で服従を強いる欲望の、わかりやすい発露。
 怖い……!
 
 痛みは、なかった。

 振り上げたマドックの手は、空で止まっていた。横から、手首を掴まれていた。骨ばった、長い指。暗い色のローブの袖がずり下がり、引き締まった手首までのぞいている。
 蝋のような肌の白さには、見覚えがあった。

(アーロン様……?)

「手紙、シェーラさんに書いた後、言葉足らずだったんじゃないかと思って。追加の手紙を持ってきて、エリクに頼もうと思っていたんですが。変な気配が、ね。そういうの、離れていてもわかる。俺は魔術師だから」

 手加減なしに振り下ろされた騎士の手を、アーロンの手が完璧に押さえ込んでいた。
 力でかなうはずがないと危ぶんだシェーラの心を読んだように、アーロンは顔を上げてシェーラを見て言った。

「こういうのも、競り負けない。筋力だけでは本職には勝てなくても、魔力を乗せれば全然余裕だから」

 どことなく、滑らかさに欠ける、ぎこちない口調。
 アーロンはその流れで、不自然に動きを止めていたマドックを、離れた床の上に投げ捨てた。
 手首を掴んだ片腕の力だけで。
 そして、倒れたままのシェーラに手を差し伸べてくる。
 シェーラは、はっと我に返った。
 手の平を床について半身を起こし、口の中に詰められていた布を吐き出す。

「助けて頂いてありがとう、ございます」
「うん。立てる?」

 目の前にはアーロンの手。
 その手を取ることができず、シェーラは無言で立ち上がる。
 押し倒されたときに体を打ち付けていたが、怪我をしたわけではない。
 手を借りる必要は、ない、
 ぽんぽん、と体についた埃を払う。

 ……考えがまとまらない。何か言うべきだとは思うのだが、言葉が出ない。
 助けられて嬉しいはずなのに、心は凍りついてしまったようで、ひたすら固く冷え切っている。

(アーロン様に、見られた。「アーロン様のことで浮ついていなければ、こんなことにはならなかった」と、少しでも考えてしまった罪悪感もすごい。ひとのせいに、している場合ではないのに)

 失態を晒したのは、自分の気の緩みのせい。
 アーロンの話しぶりがぎこちないのも、シェーラのいたたまれなさに気づいているからのように思われた。もしかしたら、この場に自分が駆けつけてしまったことすら、悔いているのかもしれない。
 それはさすがに、助けられた身として、申し訳が立たない。
 感謝は、伝えねば。

「アーロン様、あの」

 思い切って話そうとした瞬間、戦場で鍛えた勘が危機を知らせた。
 ぞわりと髪の毛が逆立つ感覚。
 視界の隅に、マドックが立ち上がり、ナイフを手に走り込んでくるのが見えた。
 体が動く。アーロンをかばうように、前に出ようと。そうやって、常に周りを見て、周りを助け、誰よりも戦う、それが自分なのだ。
 ここでアーロンを守れたら、自信を取り戻せる……!

 そのシェーラの(はや)る心を軽く捻り潰すように、アーロンがシェーラの前に立った。

 全身を使い、力任せに刺し貫こうとしてきたマドックの前に手をかざすと、不思議の力を行使し、壁際までその巨体を勢いよく吹っ飛ばす。
 マドックは打ちどころが悪かったのか、意識を失ったらしく、ずるりと壁から床に落ちて倒れ込んだ。
 騎士と一対一の接近戦で、武器すら手にしていなくても、まったく危なげなく勝利する魔術師団長としての実力。

(このひと、本当に強いんだ……。私が守るようなひとじゃない。だけど)

 シェーラは悔しさに唇を噛み締めてから、ぼそりと言った。

「今のは、私でも十分に対処できました」
「できない」

 無意味な反抗を口にしたシェーラに対し、アーロンは厳然とした声で否定を告げる。

「できました!」
「できない。シェーラさん、いつもより全然動きが悪い。絶対に一撃をもらって、今頃大怪我していた。戦いたいのも、やり返したいのも、副団長として強さを示したいのも、気持ちはわかる。でも、確実に君が負けるとわかっている以上、俺は君を、俺の前に立たせたままではいられない」

 その言葉には、少しの緩みもなかった。
 シェーラとて、アーロンに対して「君の危機ですから、駆けつけました。守るのは男として当然です」という甘い言葉を期待していたわけではない。まったく一欠片もないと言ったら嘘になるが、それでもアーロンが指摘した通り、シェーラはメンツとけじめの問題で、マドックとは自分で戦いたいと思っていたのだ。
 そういった闘志を、踏み(にじ)られた。

「怪我なんて怖くありません。アーロン様は、私の判断を信用していないんですか」

 不毛な言い争いになると気づいていながらも、シェーラは食って掛かってしまう。
 アーロンは紫水晶の瞳に強い力を宿し、シェーラを見返してきた。
 極めつけの無表情が、アーロンの美貌を酷薄に彩る。

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