執愛音感~そのメロディは溺愛不可避~
「美味しかった。たいへんご馳走様でした」
「今度は彼氏でも連れてきていいわよ」
「だぁから彼氏なんていないってば」
「なに言ってるの、アラサーなんだから彼氏のひとりやふたりいるでしょ」
「いないって……」

お代はいらない、という静江をなんとか説き伏せて支払いという一大ミッションを終えた響子は、やれやれと息をついて店内を改めて見渡す。
飾られた花やレトロな雰囲気を演出するサイフォンよりも、やはり響子の目を引くのはピアノだ。

「響子ちゃんたら、やっぱり弾きたかったのね」
「や、別にそういうわけじゃ……」
「素直じゃないんだから……あら」

静江がエプロンからスマホを取り出す。
着信しているようだ。
ごめんね、と口の動きだけで詫びると、静江はくるりと後ろを向いて電話に出た。

「はい、喫茶かなでです。あら、お世話になっております。ええ。…………」

仕入れ業者からの電話だろうか。そのまま奥の事務所へ入っていってしまった静江を見送るも、このまま帰ってしまうのも戸締りの観点からよろしくなかろうと立ち尽くし、手持ち無沙汰に辺りを見渡す。
当然なのだが──ピアノは変わらず、そこにあった。

ぱたんと事務所へ繋がるドアが閉められる。静江の声は聞こえてこない。
ごくり、と生唾を飲み込む音が耳元で大きく響いた。
椅子に座り、そっと蓋に手を伸ばす。
自分で閉じたばかりの蓋は艶々の黒い鏡のようで、間伸びした自分の顔がなんだかおかしかった。
ぐ、と親指に力を入れて蓋を開ける。フェルトのカバーをゆったり畳みながら取り払うと、モノクロの桃源郷が歳月をものともせずに響子を待っていた。

まず、一音。

「……重い」

最後に弾いてから軽く10年だ。
鍵盤の重さに指が負けている。
無意識に右手が練習曲のハノンを奏で出す。
跳ね返そうとする鍵盤に挑むように、指の腹を意識して、一音一音を響かせる。
左手もそれに援護するように加わって二重奏に突入だ。
いくつかのフレーズをこなした後、はっと我に返った響子は鍵盤から手を離した。

「……競ってるわけじゃないの。落ち着いて」

深呼吸を二度ほど終えて、事務所へのドアに視線を戻す。まだ静寂は保たれていた。

「やっぱり、これかな……」

頭の中に刻まれた楽譜を開けば、指が勝手に位置に着いた。
エルガー作曲、『愛の挨拶』。
彼が婚約者に贈った、ゆったりと語らうようなロマンチックな一曲。
包み込むような伸びやかなメロディと、ドラマチックに盛り上がる主旋律。
オリジナルよりもゆったりとためて弾くのが、響子の好きな弾き方だ。

──先生には、もっと軽やかにって言われてきたけれど……婚約者への贈り物だもの、愛しい気持ちを上っ面だけ優しいメロディで包むなんてできない。

メトロノームがあったなら大きく逸脱しているテンポのまま、フレーズの切れ目で息をつく。
管楽器なら相当の肺活量がなければ吹ききれない間の持たせ方だ。

「……あ、ミスタッチ」

なめらかな肌触りの布に、外し忘れたまち針のような不協和音が耳を掠める。

しょうがない。長いこと弾いてなかったもの。

開き直った勢いのままに弾き終えたのは随分と不格好な愛の挨拶だったが、弾き終えた手を鍵盤から下ろした響子は、薔薇の花束でも捧げられたように頬を紅潮させていた。
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