私の一番愛する人
×××



『咲綾との結婚のことで相談したいことがあります。会えませんか?』

 メールの文面を読んで、私は顔を顰めた。以前咲綾から紹介された男、秋津直人。私はこの男が好きではない。

 親友の彼氏を悪く言いたくはないが、直感で嫌な印象を受けていた。とはいえ、何をされたわけでもない。咲綾に何か酷いことをしたわけでもない。何より、咲綾が彼のことを信じきっている。だから水を差すようなことはしたくなかった。何の確証もないのだから。
 しかし、咲綾抜きで会う気にはとてもじゃないがならない。それに、結婚の相談とは言え、親友の彼氏に内密に会うというのはどう考えても不義理だろう。

『申し訳ないですが、咲綾に黙って会うのは気が引けます。メールでなら相談にのるので、それでは駄目でしょうか?』

 そう返信すると、すぐに返事がきた。

『それなら大丈夫です。沙友里さん以外にも、同級生の方に声をかけていますので、是非ご一緒に』

 要するに、二人きりで会うわけではない、と言いたいのだろう。同級生にも声をかけているということは、結婚式のサプライズか何かでも相談したいのかもしれない。大切な親友の彼氏だ。あまり頑固に断るのも、今後のためにならないか。
 溜息を吐いて、私は了承を返した。



「――おひとりですか?」
「すみません。誘ってはいたんですけど、どうも皆さん都合が悪くなってしまったようで」

 思わず目を眇めてしまう。何を企んでいるのか、と穿ってしまうのは、私の性格が悪いのだろうか。
 しかし、来てしまったものは仕方ない。居酒屋の席につき、私は一杯だけ付き合ってすぐにお暇しようと決めた。

「何にしますか?」
「ビールで」
「はは、似合いますね」

 度数も弱くてちょうどいいと思っただけだが、どうせ可愛らしいカクテルなどは似合わない。
 頼んだドリンクはすぐに来て、乾杯をし、口をつける。

「それで、相談というのは?」
「いきなり本題ですか」
「すみません。今日はあまり時間がないので、手短に済ませていただけると」
「そうなんですか、残念です。では、ちょっと聞きたいことがあるんですけど――」



***



「――……?」

 ぼんやりと意識が浮上して、体に違和感を感じ、勢いよく起き上がる。

「ああ、起きた?」

 絶句したまま視線を向けると、秋津直人がベッドの端に座っていた。視線を走らせれば、どうもホテルの一室にいるらしい。
 状況が理解できずに、脳が混乱する。確か、居酒屋で彼の相談に乗っていたはずだ。暫くは話をしていた記憶がある。けど、その先が思い出せない。酒には決して弱くない。ビール一杯で記憶をなくしたりしない。

「何か、盛った?」

 確信を持って問いかけると、秋津はにんまりと笑った。

「まぁ、ちょーっとおクスリ的な? あそこの店員とは仲いいんだぁ」

 飲み物からは目を離さなかった。途中でトイレに立ったりもしていない。まさか最初から。己の落ち度に歯噛みする。

「何が、目的なの」
「ん~、咲綾のことなんだけどさ。あんた、俺のこと寝取ったってことにしてくれない?」
「……は?」

 何を言っているのか全く理解が出来ずに、思わず声が漏れてしまう。

「正直、結婚とか冗談じゃないんだよね~。それをあのバカ女がさぁ、話進めちゃって。でも結婚詐欺とかで訴えられたら困るし? だから揉め事はそっちでやってほしくて、とりあえず既成事実的な」
「そんな……バカな提案を、私が呑むとでも思ってるの?」
「呑むよ、あんたは。だって、咲綾のことが大事だろう?」

 にぃ、といやらしく笑う男を、思い切り睨みつける。

「あいつ俺にベタ惚れだからなぁ。あんたが俺に襲われたって言って、あいつ信じると思うか?」

 分からない。咲綾は、この男を信じ切っている。

「仮に信じたとしてさ。俺に裏切られたって分かったら、あいつ自殺でもするかもな~」

 物騒な言葉に手に力が入る。否定しきれないほど、親友はこの男を心底愛している。

「しかも、自分の婚約者が親友を襲ったなんて? 自分の責任だと思い込んだら……壊れちまうだろうな~」

 このクズは、こうやって自分だけ安全地帯へ逃げようとしている。最低の提案だ。それが分かっていても、そうなってしまうかも、と思う自分がいる。

「んじゃ、決心ついたら良さげなシナリオ考えて連絡ちょーだい」

 ベッドから立ち上がり、秋津が部屋を出ていこうとする。

「地獄に落ちろ、クソ野郎」

 その背中に、そう声をかけるのが精いっぱいだった。



***



「ッ寄らないで!!」

 じわりと、腹部に熱い感触。刺されたのか、と痺れる頭でぼんやり考えた。

「あんたが……悪いのよ」

 咲綾の声が震えている。

「あんたさえいなければ、私は幸せだったのに……! 全部、全部めちゃくちゃにして! 親友だと思ってた……信じてたのに……ッ、地獄に落ちろ!!」

 ああ、私と同じ言葉を吐き捨てている。十年も一緒に居たから、似たのかもしれない、なんて思わず笑ってしまった。
 十年も一緒にいた私より、大して一緒にいなかったあの男の方が大事だったの。信じられたの。
 そう問い詰めてしまいたい気持ちもあった。だけど、答えは分かっていた。私は親友だけど、いつだって咲綾の一番にはなれない。
 心から愛していた男に裏切られ。自分のせいで親友を傷つけたと思うくらいなら。私に裏切られた方が、まだ心の傷は浅いのではないか。
 それなら、ただの被害者でいられる。私を恨むことで、生きる気力をたもってくれるかもしれない。
 咲綾が壊れることだけは、耐えられなかった。だから、あの男の提案を呑んだ。
 包丁の持ち手を拭って、自分の手でしっかりと握り直した。万一に備えて、遺書を用意しておいて良かった。これなら、おそらく自殺として処理されるはずだ。
 咲綾はあのクズ野郎と別れて、私への復讐も果たして、きっと次へ進めるはずだ。裏切られた傷は残るかもしれないが、癒してくれる人が現れるだろう。
 懺悔をするなら、私は確かに咲綾を裏切っていた。もう随分と前から、私にとって、咲綾はただの親友ではなくなっていた。墓場まで持っていくと決めていたが、これでもう誰にも知られることはないだろう。
 さようなら、どうか幸せに。
 
 あなたを一番、愛してた。
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