スパダリドクターの甘やかし宣言

プリセプターの憂鬱

 パタパタと忙しない足音があちこちから聞こえてくる。そこに電話の呼び出し音や産婦さんの苦しみ呻く声も加わって、今日も分娩室前のこの通路が静まり返ることはない。

 いつも通りの騒々しい物音を背後に聞きながら、私は医療カートの上に乗ったパソコンにチラリと目をやって、それから目の前で不貞腐れたように唇を引き結ぶ彼女に向き直った。
 
「赤羽さん、分娩室(LDR)三の小松さんのカルテ、記入お願いしてたよね?真っ白だけど、何かあった?」

 すると目の前の彼女――私が教育担当(プリセプター)を務める新人助産師の赤羽由依さんは、アイメイクばっちりの華やかな目を一度泳がせた後、俯きがちになりながら口を開いた。

「……今、書こうと思ってました」
「うん、ありがとう。でも小松さんがLDRに来てからもう四時間だよね?その間に分娩も結構進んでるけど、それも書けてないのはなんでかな?」

 できる限り優しい声色で、そう訊ねる。
 少し意地悪な聞き方かもしれない。でも次に同じミスをしないよう自分の行動を省みてほしいから、私はジッと赤羽さんを見据えて彼女の言葉を待った。

「それは……その、小松さんに不安だからずっとついててほしいって言われて、手が離せなかったんです……」
「そっか。私たち助産師は産婦さんの不安に寄り添って心のケアをしてあげることも仕事だからね。それはすごくいいんだけど……でも私たちの一番の仕事は、お母さんと赤ちゃんがどっちも安全にお産を終えられるようにすることだよ。分娩の経過が分からなかったら、急変した時に先生も適切な判断ができないかもしれない。それで一番困るのは患者さんだからね。だから常に優先順位をつけて……」
「分かりました。今から書きますから」

 私の言葉をピシャリと遮ると、赤羽さんはムッとしかめ面をしながらパソコンに向かってゆっくりカルテを打ち込み始めた。
 
 強制的に話をシャットアウトされ、モヤモヤとした感情だけが胸に残る。毎回こんな感じで素直に聞き入れてもらえないので、鬱憤は溜まる一方だ。
 でもそれを彼女にぶつけるわけにはいかないから、ため息でなんとか誤魔化した。それから、念のためと思って小松さんの分娩経過をメモした紙を彼女に差し出す。

「……これ、もし分娩経過分からなくなっちゃったら使ってね」
「分かりました」

 ……目も合わなかった。
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