MABELと呼ぶ唇で

【序章】桜は散れど愛散らず

 記憶、記憶だと思いたい。
 いや、これは【妄執】なのかもしれない。
 時は春、ここは銀座のカフェテリア。上から下へと伸びる大きな硝子窓から見れば、歩道に延々と一列をなした桜並木が春の長閑な陽射しに照る。
 それでも花冷えの頃だ、冷たいそよ風が吹いたのだろう。桜吹雪が舞い散り、銀座の歩道に幻をみせる。
 俺は、つい先程頼んだ「筈だと思っていた」珈琲を口に運ぶも、それも冷たくなっていた。
 珈琲が冷えてくれている方が、今は丁度タイミングが良かった。何故なら【記憶か妄執か】を判別出来るからだ。
 「いや、あれは記憶であり、妄執なんだ。」
 俺は、黒崎颯は確心した。
 紙の上を走らせていたペンを止め、テーブルへ頭をうつ伏せて手で抱えると、直ぐ様大袈裟に髪を振り乱し顔を上げる。ゾクゾクとした震えが頭から心臓から腸へと沸き上がり、それは悪寒とも幸福感とも区別がつかない。
 【趣深い人間らしい愛情と、黒々と化物じみた執着が、俺の中に芽吹き始めている】
 得体の知れない感情が芽吹く、きっかけとなった思い出を何度も頭の中で、そして口の中でも何度も何度も咀嚼し続ける。
 記憶であり妄執の咀嚼を、珈琲に添える甘く柔らかなデザートにして、愉しみ悦しむ。
 「今の俺なら、未だ見たことの無い官美なデザインを作れるかもしれない。」
 黒インクのペンは、夏物の涼やかなエーラインワンピースを、ひたすらに画き、紙の上を動き回る。それも一つや二つではない。何着もの衣服のデザイン画をひたすらに描き続ける。
 官美な咀嚼とデザイン画へのリビドーと。俺は陶酔しながらデザイン画を描ききった。
 端から見れば狂人の沙汰だろう。既に気の合う知り合いの域である筈のウエイター君までもが、俺の修羅の如くの仕事ぶりに怖じ気づいている。
 でも客も店員も皆、今は気にしないでおきたい。
 デザイン画は、決定案が出てきそうである。
 もう僅かばかり底の方に残っていた、冷えに冷えた珈琲を啜りながら、俺は安心しきり、彼方の妄執へと想いを巡らせていた。
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