マッチョになりてぇ~!
「割れた腹筋が欲しい」

 行きつけの居酒屋で、ジョッキのビールを一気に呷った後、明智先輩はそう言った。
 俺はまだ運ばれてきたばかりのビールに口をつけて、また変なことを、と思った。
 先輩は賢そうな名前をしているくせに、いや実際賢いには賢いのだが、発言が時々馬鹿だった。

 明智先輩は同じ会社の先輩で、俺の教育係だ。今の時代には珍しく、業後に飲みに行こうと誘ってくれるような人だった。もちろん強制ではないが、俺も人付き合いは嫌いなタイプではないので、ありがたく誘いに乗った。それから、時々こうして二人で飲んでいる。
 ちなみに先輩は女性だ。最初は二人きりにならないよう気をつかったのだろう、俺以外の同期(先輩から見たら後輩にあたる)もまとめて誘ってくれたのだが、誰も来なかった。あの時のしょんぼりした背中は忘れられない。誘う前にこっそり財布を確認していたのも見てしまった。全員に奢るつもりで意気込んでいたのだろう。その姿が憐れだったから誘いに乗ったわけでは断じてない。

 最初は仕事の相談に乗ってもらったりもしていたが、回を重ねるごとに先輩も愚痴が増えてきて、最近ではプライベートな話題もするようになった。だから俺も、割と気安い口をきいている。

「それはマッチョな彼氏が欲しいって意味ですか?」
「はぁ?」

 先輩は低い声を出して目を吊り上げた。地雷踏んだかも、と俺はごまかすようにビールを口にした。

「でたでた! 女はマッチョが好きみたいな偏見!」
「いや別にそうは言ってないじゃないですか」
「腹筋割りたいって話してんのに、なんでまず彼氏? って聞くんだろうなぁ~! 私男が欲しいなんて君の前で一回でも言ったかなぁ~!」
「あ~はいはい、すんません。言ってないです。俺が悪かったです」

 割りたいじゃなくて、欲しいって言ったじゃん。と言い返してはいけない。酒の入った先輩は面倒くさい。まだそれ一杯目のはずだけどな。すきっ腹に一気に呷るから。

「ほら先輩、まずはお通し食べて。お腹空いてるからいらいらするんですよ。二杯目何頼みます?」
「レモンサワー」
「りょーかいです」

 ちょうど注文していたサラダと漬物が運ばれてきたので、先輩の分のレモンサワーを追加注文した。
 男だけで来るとサラダなんて頼まないが、先輩と飲む時は自然とこういった健康志向のメニューも頼むことになるので、健康管理的な意味ではありがたい。ちなみに肉は肉でがっつり頼む。先輩がレモンサワーにしたのは、多分からあげを頼んでいるからだ。

「ほら野菜食え若人。もりもり食え」
「ちょちょちょ、先輩、盛り過ぎ盛り過ぎ」

 人のことを若人とか言うが、先輩は確か俺と三つしか違わない。二十五かそこらだったと記憶しているが、やたらと年上ぶる。
 俺の取り皿に豪快にサラダを盛った先輩は、残りの入った器を自分の前に置いた。別に欲張っているわけではなく、俺がそんなに野菜を取らないのでサラダを頼んだ時はこうなる。
 パリパリと音を立てて葉っぱを平らげていく姿は、小動物のようだ。ウサギかなんかだろうか。

「先輩運動なんかしてるんですか?」
「おうともよ。よくぞ聞いてくれた。これでも半年以上ジムに通っている」
「思ったよりガチだった」

 これから筋トレしようとかそういう話かと思ったら、既に結構運動していた。今食べているサラダもそうだが、健康管理には気を配っている人だから、健康維持のためかもしれない。
 俺とよく飲みに行くっていったって、週一とかそんなもんだもんな。他の日に何してようと、別に不思議はないんだが。

「俺初耳です」
「初めて言ったからね」
「言ってくれても良かったのに」
「だってなんか……言い辛いじゃん。意識高い系に見えるしさー、しかも、お前、それで? とか思われてもさー」
「それでって」
「見りゃわかんだろが」

 とげとげしく言われて、俺は口を噤んだ。何も言ってないのに。
 別に先輩は細いってほどじゃないけど、太ってるというほどでもない。健康面に影響がありそうな体型ではないから、別にいいんじゃないだろうか。
 ああでも、一部、ちょっと、人より豊かかもしれない。
 思わずそこに視線がいって、慌てて目を逸らした。
 直後、頼んでいたからあげが運ばれてきたので、何もつっこまれずに済んで俺はほっとした。

「きたきた、からあげ」

 歌い出しそうな様子でうきうきと言って、先輩は取り皿にひょいひょいとからあげを三つほど乗せた。そして残りを俺の前に置く。
 肉は好きだが、そんなにたくさんは要らないらしい。俺の前には先輩の倍からあげがある。これが、いつもの配分。

 先輩はじゅわっと油が溢れるからあげを口に含み、しっかり歯で噛んで味わったあと、レモンサワーでさっぱりと洗い流し、満足そうに声を上げた。

「うまー! この瞬間のために生きているー!」
「お手軽ですねぇ」

 口調は呆れたように言いながら、俺は顔が緩んでいるのを自覚していた。幸せそうな先輩を見るのは悪くない。

「いやーでも、酒にからあげなんて、腹筋割りたいとか言ってる人のメニューじゃないですね」
「その背徳感がいいんだよ。別にいっつもこんなの食べてるわけじゃないし。家ではちゃんとササミとかブロッコリーとか食べてるし」
「おお、本格志向」

 食事メニューにも気を配っているとは。どうやらこれは結構本気で鍛えたいと思っているようだ。

「なんでそんなに筋肉欲しいんですか?」
「暴力は全てを解決する」
「こわ。突然蛮族みたいなこと言い出した」

 仕事をしている時は理知的なことを言えるのに、ストレスが溜まると脳筋みたいなことを言い出す。根が戦闘民族なんだよなこの人。

「誰かぶっとばしたい奴でもいるんですか」

 そう聞くと、先輩は眉間に深く皺を寄せた。おお。憎い相手がいるらしい。

「しいていうなら社会」
「そりゃまた大きく出ましたね」
「敵は強大だからね。どんだけ口が回ったって、しょせんちっぽけな女一人じゃ太刀打ちできないのさ」

 レモンサワーを飲み干して、先輩は呻くようにして吐き出した。

「私がデカくて腹筋バキバキで肩幅バーンでアゴが割れたゴリラ男だったらどんなに良かっただろうって、人生で何回思ったことか」

 俺は黙った。これは、深く聞いてほしくて言っているのか、言いたいだけで何も言ってほしくはないのか。言葉のチョイスから、笑い飛ばしてほしいのかもしれない。
 むかつく上司の愚痴くらいだったら付き合ってあげようと思っていたのだが、思ったより根深そうな悩みにどうするのが正解か逡巡していると、先輩は大声で店員を呼んで、三杯目の日本酒を頼んだ。すぐに運ばれてきたそれに、俺は慌てた。

「ちょっと先輩、大丈夫なんですか日本酒なんて」
「こんくらい飲めらぁ」
「既に口調が迷子じゃないですか」

 あんまり酔わないでほしい。俺と先輩の家は逆方向なので、駅までは送っていけるが、その先は先輩一人なのだから。

「どんなにマッチョになりたくても、先輩マッチョじゃないんですから。気をつけないと」

 先輩の顔が一気に顰められて、ああまた地雷踏んだ、と俺は冷や汗を流した。

「うっさい! お前に言われんでもこっちが一番わかってるわ! 好きに酒も飲めないのかこの国は!」

 心配しただけなのに。俺悪くないよな? 普通のこと言ってるよな?
 どうしたものかと頭を悩ませている間に、先輩は頼んであったチャーハンを自分の分しっかり取り皿に盛って、それをもりもり食べながら日本酒を飲んでいた。

「熊でも飼おうかな」
「熊って」
「熊連れて歩いてる女がいたら怖くない?」

 これはだいぶ酔っているな、と俺は溜息を吐いた。

「熊飼うくらいだったらマッチョ飼った方が早いですよ」

 先輩に合わせた軽口のつもりだったが、意外にも先輩は真剣に考え込んだ。

「それもそうだな。飼うか、マッチョ」

 え、嘘。
 俺はチャーハンをすくっていた大きなスプーンを皿に落とした。

「……冗談、ですよね?」
「まぁ飼うというかなんというか。家に置いといたら、番犬にはなりそうだなと」
「ま、マッチョは世話が大変ですよ。プロテインのメーカーとか拘るし。筋トレグッズで部屋を圧迫するし。食事のメニューにうるさいし」
「そこは私も鍛えたいから、むしろ教えてもらえたら歓迎だけど」

 そんな。そんな。

「次ジム行ったら、適当に声かけてみるかな~」

 だってそれってつまり。

「せ、先輩彼氏はいらないって言ったじゃないですか!」

 俺は思わず立ち上がった。ぎょっとした顔で先輩が見ている。
 周囲からも視線を感じて、俺は顔に熱が集まるのを感じながら、おとなしく席に座った。

「どうした青少年。情緒不安定か」
「いえ……。でもいたたまれないので早く出たいです」

 テーブルの上のものを手早く食べきって、割り勘で会計を済ませ、俺と先輩は店を出た。

 外の空気を肺一杯に吸い込むと、いくらか頭が冷えてくる。ああ、俺はなんて醜態を。
 恥ずかしさから、駅までの道のりは、ほとんど話さなかった。先輩が何度か話しかけてくれたが、短い相槌を打つので精一杯だった。

「それじゃ、また来週」

 駅の改札を潜り、先輩と俺はホームが逆なので、いつもそこで別れる。
 だけど俺は立ち止まって、先輩と向かい合った。

「あの、先輩」

 真剣な声色の俺に、先輩は怪訝そうに俺を見上げた。

「飼うの、俺じゃだめですか」

 先輩が目を丸くした。
 言ってから、何言ってんだ、と後悔した。俺も結構酔ってるのかもしれない。
 飼うって。ヒモ宣言か。違うんですちゃんと働きます。

 先輩はちょっと考え込むようにして、真顔で告げた。

「ごめん。私の好みはマッチョなゴリ男なので」
「は!? 別にマッチョが好きなわけじゃないって!」
「言ってない。女はマッチョが好き、ってのが偏見だと言っただけで、私個人の好みの話はしてない」
「屁理屈!!」

 なんだそれ!
 唖然とした俺に、先輩は続けた。

「でもまぁ、君のことは結構好きなので」

 ぽすり、と軽く俺の腹に拳を当てて、先輩は赤い顔で俺を見上げた。

「腹筋がバキバキに割れたら、考えてあげなくもない」

 悪戯っ子のように微笑んだ先輩は、『先輩』じゃなくて『女の子』の顔をしていて。
 初めて見る顔に言葉が出ない俺を残して、先輩は「じゃ」と軽く挨拶をして反対のホームに行ってしまった。

 残された俺は、へなへなとその場にしゃがみこんで。

「……マッチョになりてぇ~!」

 すれ違った人がびくっと体を震わせて、足早に過ぎ去っていった。
 とりあえず、明日から毎日筋トレする。
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