玉響の花雫 壱

秋海棠（しゅうかいどう）

カランカラン


「こんばんは。いらっしゃいませ。」


ここは都会の片隅に佇む
小さな小さな喫茶店。

アンティーク調の木のテーブルと椅子。

そこに淡い優しい光を放つ
裸電球が幾つか吊り下げられ、
カウンターの隅には今はもう知る人も
少ない黒電話が置かれている。


店内にゆったりと流れる
JAZZ調の音楽を聞くと、コントラバス
のベース音に合わせて心が躍るし、
香ってくる香ばしい豆の匂いが漂うだけで心が満たされてしまう



カウンターの席の他には
小さな丸テーブルが窓側に２つのみ。
それでもここにはこぞって訪れる
珈琲好きな人々がとても多い気がする


「おしぼりをどうぞ。」

『ありがとう。』


ピンストライプのグレーのスーツを
今日も素敵に着こなした彼は、
トレイからホカホカのおしぼりを
受け取ると、私の目を見て
丁寧にお礼を言ってくれた。


大学2年の時に始めたここのバイトは、
週に2、3度訪れる彼が来る日が
楽しみだったりしている。


今日も窓側の隅に座ると長い足を組み、
おしぼりで手を丁寧にふき、
少し離れて立つ私に優しく微笑んで
いつもこう言うのだ。


『今日のおすすめを。』


滞在時間はたったの2、30分ほどで、
交わす会話もたったこれだけだけど、
彼とのこのやりとりは私にとっては
とても大切なことである。


「かしこまりました。」


丁寧にお辞儀をしたあと、マスターに
注文を伝えに行くと、カウンターの
お仕事を手伝いながらも窓際の彼をそっと見つめた‥‥。


名前も知らない‥‥

勿論年齢だって分からない‥‥


ここでは店員とよく来るお客様という
それだけの関係で、今後もそれは
奇跡でも起きない限りきっと変わらない

スーツを着ているから
会社員だとは思うけど、
何の仕事をしていつもどんな風に
過ごしているかは想像の世界だ。


来店される時間帯は夕方から夜が
多いから仕事帰りに寄って下さって
いるのかな‥‥‥？



『霞（かすみ）さん、お願いします。』

「は、はい、マスター。」


正直アルバイトを雇うほど
忙しくないこの小さな喫茶店だが、
たまたま私が雨宿りで入った時に
この店に一目惚れをしてしまい、
何度も頼み込んで雇ってもらったのだ


平日のみのアルバイトは
勤務時間は16時から21時まで。

お店の掃除、片付け、洗い物、注文、
電話応対、買い出しを1人で行い、
マスターには美味しい拘りの珈琲を
淹れてもらう為に私はお手伝いを
させていただいている。



「お待たせ致しました。
　本日のオススメの
　グアテマラになります。」