玉響の花雫    壱
聞き間違えじゃないかと思ったけど、
マスターは少し小さな溜め息を吐くと
寂しそうな表情でカップを磨き始めた


好きな仕事は、
興味があるからそれを始めるもの
だと思っていた


大学の講義で、産まれてから死ぬまで
働いている時間が最も長いから、
選ぶ職業はとても大切だって
聞いたことがある



豆の品質や温度、空調管理を丁寧に
行っているから珈琲が相当好きなのだと
思っていたのに驚いてしまう。


『わたしは今、後悔してないんですよ。
 スタートこそ不純な動機ですが、
 過ごした時間は良い方々に出会えた
 恵まれた人生ですからね。
 結果として良かったと思える人生を
 過ごせてるんですよ。
 もしこの人生をあの時
 選んでなかったらなんて
 誰もが何度も考えると思います。
 大事なのはどんな人生を選ぶかより
 選んだ人生を自分の中にどう
 取り込んでいくかだとおもいます。
 時には休み、怠けて、
 時には頑張ればいいのですよ。』



何十年もここで
たくさんの人と過ごしてきた。
マスターの表情が
こんなにも穏やかなのは
生きてきた過程の結果なんだ‥‥


好きだけじゃ
仕事は出来ないかもしれないし、
モチベーションによっては好きだけで
頑張れるかもしれないけど、それは
人それぞれってこと?


「マスター‥‥‥わたし‥」



カランカラン


『いらっしゃいませ。』


入り口の扉が開かれて、
マスターが手元のカップから
視線をあげるとその人物に笑顔を向けた


「‥!!」



視線の先には、
今日もスーツを素敵に着こなした
筒井さんが立っていて、私に気付くと
一瞬驚いた表情をしたものの、すぐに
柔らかい表情に戻っていく。



『こんばんは。研修お疲れ様。』


窓際に向かうと思ったのに、私がいる
カウンターの方へ来てしまったので、
どうしていいか分からなくなる頭で
声を振り絞る


「お疲れ様です‥すみませんここに
 来てしまって‥‥あ、あの‥‥
 私はもう帰るとこだったので
 ゆっくりされてくださいね。」


カウンターの椅子から降りると、
お辞儀をして財布からお金を取り出した


筒井さんはここには
美味しい珈琲を飲みながらリラックス
しにいらしてる。


私なんかがいたら
気を遣わせてしまうし、何より
もうあまり関わらない方がいい‥‥


説明会の時にも思ったけど、
こんな素敵な人に告白できただけでも
すごいことだったって思ったから。


「マスターご馳走様でした。
 そのチョコ差し上げますので
 疲れた時に食べてください。」



『逃げるな‥‥』


えっ?
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