桜花彩麗伝

「ごめんなさい。櫂秦とははぐれちゃって」

「あいつ……。まあ、とにかくお嬢さまがご無事で何よりです」

 一瞬、櫂秦に対して憤りかけたものの、安堵が(まさ)った。青白い紫苑の顔の強張りがみるみるほどけていく。
 怪我や異変がないことを一瞬のうちに確かめた彼はほっと息をついた。

「ところで、橙華は? 宮殿へ送り届けてくれた?」

「それが……途中で“もう大丈夫だから”と断って、もうひとつ用を忘れていたと振り切って行ってしまって」

 都は物騒だというのに、春蘭にしても橙華にしても危機感がまるで足りていない。
 しかし、引き止められずに彼女を行かせてしまったのは自分の責任である。
 何ごともなく王宮で再会できることを祈るほかなかった。



 結局、半時(約三十分)ほど待ったが、櫂秦も橙華も現れることはなく、春蘭と紫苑はふたりで宮殿へと帰還した。
 驚いたことに、桜花殿には既に橙華の姿があった。
 殿内へは入らず、春蘭たちの帰りを待っていたようである。

「橙華! よかった、何ともない?」

「は、はい。ご心配おかけして申し訳ございません」

「大丈夫ならいいの。それより、用事ってそんな急用だったの?」

「そういうわけではないのですが……」

 曖昧に笑って誤魔化すが、内心では焦りを募らせていた。
 我を忘れるほど必死であった上、文禪から下された(めい)があまりに恐ろしく、偽装のための小道具も嘘も用意できていない。それどころではなかった。
 訝しがられるのも無理はないほど不自然である自覚がある。

「……とにかく、無事ならよかったわ。中へ入りましょ」

 春蘭はそう言ってくれたが、紫苑はやはり怪訝そうな面持ちであった。
 それでも気づかないふりをした橙華は、ふたりに続いて殿内へと踏み入れた。



「お嬢さま……おかえりなさい」

 長椅子に腰かけていた芙蓉が勢いよく立ち上がる。
 その拍子に揺れた(かんざし)の飾りが、しゃらりと上品な音を立てた。
 華やかに着飾った彼女は、その装いに似つかわしくないような不安気な表情をたたえている。

「ご苦労さま、芙蓉。ありがとう。何ごともなかった?」

「大丈夫でしたが……もう恐ろしくてなりませんでした!」

「ふふ、ごめんね。でも似合ってるわよ」

 悪戯っぽく笑う春蘭に「お嬢さま!」と抗議するが、やはりと言うべきか取り合ってはくれなかった。

 実のところ、いつ露呈(ろてい)するか、誰か来やしないだろうか、と終始肝を冷やし、気が気ではなかった。
 妃の格好をして高貴なふりをするなど、露見(ろけん)すればただでは済まない。
 少しの間だから、とどうにか自分に言い聞かせながら事なきを得たことで、心底ほっとしているところであった。

 だけど、と芙蓉は味わったことのない感情を反芻(はんすう)する。
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