桜花彩麗伝

「……っ」

 思わず滲んだ涙を見られないよう一度俯き、両の拳を握り締めた。
 無理にでも彼のように笑みを浮かべるが、どうしたってぎこちなくなる。

「……泣き虫なのは相変わらずみたいですが」

 からかうように苦笑を混じえられ、榮瑶は慌てて目元を拭った。

「いいえ、泣いてません!」

「そうですか、安心しました」

 さらりと涼やかな風が過ぎ、刹那(せつな)の沈黙が落ちる。
 すっかり涙の気配の引いた榮瑶はやがて静かに口を開いた。

「僕は柊州に帰ります。いろんな方の協力を受けられたお陰で、再び州牧の任に就くことができました」

「それは何よりですね。あなたほどの適任者はほかにいないでしょう」

「……だと、いいんですけど。とにかくその中には兄う……紫苑さんも含まれてます」

「わたしも?」

「はい。あのとき、会えてよかった。生きててくれてよかったです」

 榮瑶は屈託(くったく)のない笑顔を浮かべた。心から笑うことができた。
 もう、あの頃の兄も自分もいない。
 二度と“兄上”と呼ぶことは叶わないが、彼を慕う気持ちは変わらない。
 彼をがっかりさせることがないよう、これからも能吏(のうり)を目指し精進していくのみである。ますます気を引き締めなければならない。
 父や蕭家に背を向けることになったとしても。



 榮瑶が去ったあと、慌てて走る足音が近づいてきた。
 脇目も振らず駆け寄ってきた橙華は、焦ったように紫苑の腕を引いた。

「紫苑さん、大変です……! 婕妤さまが────」

 例の成り代わりが露見(ろけん)したことと淑徳殿で起こった一件を、冷静さを欠きながらも懸命に伝える。
 春蘭が全責任と罰を負うことを条件に芙蓉は解放され、既に桜花殿へと戻されていた。
 一連の話を聞いた紫苑は血相(けっそう)を変える。

「福寿殿だな?」

「はい、櫂秦さんも急いで向かわれました」

 聞き終わらないうちに道を引き返し、一心不乱に駆け抜け福寿殿へと向かった。



 殿へたどり着くと、橙華の言っていた通り、門から伸びる石畳の道の中央に春蘭が跪いていた。

 屋舎(おくしゃ)の前にいる太后や帆珠は、満足気にその様を眺めている。勝ち誇ったような表情であった。
 周囲を取り巻く女官や内官が何ごとかを囁き合う声が、恐らく春蘭の耳にも届いているであろうが、ものともしない凜然さをまとっている。

 回廊(かいろう)から遠巻きに眺めていた櫂秦は、紫苑に気がつくと歩み寄ってきた。

「遅かったな。やべぇことになったぞ……」

「……っ」

 なりふり構わず春蘭のもとへ足を踏み出した紫苑の肩を、慌てて掴んで引き止める。
 その横顔は余裕を失っており、完全に平静さを損なっていた。

「おい、なに考えてんだよ」

「お嬢さまを助けなければ……。こんな、見世物(みせもの)みたいな罰────」
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