桜花彩麗伝

「……こたびのことは残念だ」

 王は淡々とそう残し、春蘭を伴って去っていった。
 きつく唇を噛み締めると紅より赤い血が滲み、鉄の味が広がる。

(心にもないことを……)

 ひどく恨めしい。恨めしくてたまらないのに憎めないのは、まだ栄耀栄華(えいようえいが)への野心を捨てきれないせいか、純粋な乙女心のせいか、帆珠自身にも分からなかった。
 ただとめどなく涙があふれ、そのせいで頬が火傷を負うようだ。

 体裁(ていさい)矜恃(きょうじ)も忘れ、(むせ)び泣いていた帆珠の視界にふと上等な(くつ)が映った。
 ゆっくりと顔をもたげると、そこにいたのは容燕であった。

「父上……」

 掠れた声で呟く。咎めるような厳しい目をしていた容燕は、呆れ果て舌打ちをする。
 もはや叱責(しっせき)する気力もないといった具合だが、かといって寛容的な態度でもなかった。

「……よくも勝手なことを。身から出た錆だな」

 弾かれたように腰を浮かせた帆珠は身を引きずって寄り、必死の思いでその足を掴んだ。
 父に見捨てられては本当に終わりだ。しかし、だからこそ容燕であれば何とかしてくれるかもしれない。

「お助けください、父上! 冷宮になど行きたくありません……!」

「みっともない真似はやめよ。こたびばかりはどうしようもない」

 (すが)る帆珠を容赦なく振り払い、容燕は冷ややかに突き放した。
 むしろ、冷宮送りで済んで幸いなほどであるが、帆珠はやはり仕出かした事の重大さをまったく理解していない。
 危うく容燕まで足をすくわれるところであった。
 生まれた頃より何もかもを与えすぎた弊害(へいがい)が、思わぬ形で現れたようだ。
 その性根(しょうね)を叩き直すにあたって、虚無(きょむ)の冷宮はちょうどよいかもしれない。

「……しばし頭を冷やすがよい。機が熟せば出してやる」

「父上!」

 背を向けた容燕は振り返ることなく去っていく。
 あまりの悔しさで気が狂いそうになるのを、帆珠はどうにか気力でこらえていた。
 いつものように両手を握り締めようとしたが、爪が石畳の境目に引っかかった。
 あまりに力が込もっていたのか、ガリ、と割れて剥がれかけたそこから鮮血が流れ出す。

「……ない……許さない……」

 煮えたぎる憎悪(ぞうお)に支配され、痛みなど微塵(みじん)も感じられなかった。
 何もかも春蘭のせいだ。幾度となく屈辱を味わわされただけでなく、自分が得るはずであった寵愛(ちょうあい)も居場所も何もかもを奪われた。
 呪詛(じゅそ)のように同じ言葉を繰り返す帆珠の虚ろな瞳から、またひと筋、涙が落ちる。
 あらゆる激情が燃え盛る中、血まみれの爪を噛み砕いた。

「……この屈辱、必ずあんたに返してやるわ」
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