桜花彩麗伝
「……コウショウ、と名乗っておいででしたか」
おもむろに口を開いた洪内官の、感慨深そうな声色が穏やかに落ちる。
彼はどこか遠い眼差しで頷いた。
「……ああ。危険は伴ったかもしれないけど、どうしてもそればかりは捨てられなくて」
淡い記憶の奥底に沈んだ、亡き母の優しい笑顔を思い出す。
過去の一切を手放しても、蔑ろにできなかった未練とも言える。
だからこそ、母のつけてくれた“煌翔”という名の響きだけは捨てずに残しておいた。それもまた、自ずと彼の“箍”となっていた。
────依然として困惑から脱せないでいる三人を認め、洪内官はそれぞれに向き直る。
胸に手を当て、丁寧に腰を折った。
「申し遅れました。わたくし、洪は太子さまが宮廷におられた頃、東宮に仕えておりました元内官でございます。そして……“胡蝶伝”を著した“無名”は、ほかならぬわたくしにございます」
さらに思わぬ事実が明かされ、再び驚愕の波に見舞われる。
十二年前、例の襲撃と惨殺事件を生き延びたのは太子である煌翔と洪内官のふたりのみであった。
兇手の追跡から逃げる最中に太子とはぐれてしまったが、以降、再会に至るまでずっと彼の生存を信じて疑わなかった。
陰謀の気配を察していた洪内官は、太子がそれ以上の追躡を免れるよう、あの噂を広めたのである。放置された遺体が野犬に食い荒らされ跡形もない、と。
あの日の真実を知る者として、これまで絶えず太子を捜し続けていた。
“無名”なる筆名でくだんの書を著したのもその一環であると同時に、最後の賭けでもあった────。
ぱん、とひらめいたように櫂秦が手を打ち鳴らす。
「すっげーちょうどいいじゃん! こいつに証人になってもらって太后を追い詰めようぜ」
「確かに、連中より先に“無名”を見つけ出せたことは幸いでしたね」
紫苑が言を繋いだ。彼らの言う通り、これは太后を糾弾するまたとない好機である。
洪内官の心情を思えば、それこそが因果応報となろう。
あくどい太后が本来受けるべき真っ当な罰を免れ、後宮の最高位で栄華を極め続ける現状は、犠牲となった数多の尊い命の上に胡座をかいているにほかならない。甘んじては、あまりにも救われない。
太后の悪行を許すことなど到底できない。
「……そうね。じゃあ、さっそく────」
「待ってください。慎重に時機を見計らうべきでしょう」
はやる空気を制するように、夢幻は摯実な声で告げた。